主として圓周寺所蔵の「小笠原登関係文書」のうち、1941年の小笠原登の日記、及び関係する書簡類の解読を終え、以下のような結論を得た。 ハンセン病の発症については体質が大きく作用するという学説は、小笠原登のみが唱えたものではないし、第15回日本癩学会総会のときにのみ主張されたものでもない。むしろ、そうした学説には、学会で一定の支持があり、絶対隔離を推進する医師の間にも小笠原の学説に賛成する者もいた。それにもかかわらず、第15回日本癩学会総会で小笠原が絶対隔離を推進する医師たちから激しく攻撃されたのは、『中外日報』『朝日新聞(大阪)』が、小笠原がハンセン病について、あたかも遺伝病であるかのごとく説いているように報じたからであった。この記事の内容を否定して、ハンセン病は治癒できない感染症であるから絶対隔離が必要であることをあらためて世論に訴えるため、絶対隔離を推進する医師たちは15回総会で小笠原登を集中的に攻撃するという異常な事態を演出したのである。すなわち、絶対隔離を推進する医師たちは、京都帝国大学医学部附属医院皮膚科特別研究室でおこなっている小笠原の医療実践を攻撃したのではなく、新聞報道された内容を攻撃したのである。したがって、以後も、小笠原は自らの医療実践を変えることはなかった。この事実から、小笠原の医療実践もまた、絶対隔離政策の枠内にあったのではないかと推測される。小笠原もまた、絶対隔離の法である癩予防法を遵守し、その中で可能な限りの絶対隔離への抵抗を試みていた。これまでの研究では、小笠原は癩予防法にあえて違反しても、通院治療や退院を実施していたとみなされてきたが、「小笠原登関係文書」の分析をとおして、そうした理解に大きな疑問を懐くに至った。
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