1921年3月の第10回ロシア共産党大会での決議「割当徴発から現物税への交替」、それに基づく3月21日づけ政令は、播種キャンペーンへのプレミアとしての現物税完納後の農民への自由取引の認可であったが、3月28日づけ自由交換に関する布告は、税完納後ではなく、即座のその認可であった。この布告作成の過程は、最終草案が作成された27日づけカーメネフ特別委の税完納後の原則から逸脱したものであったが、それはカーメネフ特別委案を3月27、または28日にレーニンが改竄し、特別委案として28日の党中央委政治局会議にそれを提出し、採択したと考えるのが、アルヒーフ資料から判断して、合理的であること。 21/22年の飢饉対策として、教会貴重品収用キャンペーンが行われたが、一旦は頓挫したかに思えたこのキャンペーンが直接教会弾圧に方向を転じたのは、シュヤ事件を契機とする22年3月19日づけレーニンの厳秘書簡であった。この書簡の指示に基づき、教会弾圧の立役者となったのがトロツキーであるが、彼の活動は非公然化された。彼のこのキャンペーンの目的は収用された教会財産のうち5%を軍事官庁に拠出することであり、23年4月の第12回ロシア共産党大会で、彼は数年以内の赤軍の装備の充足計画を出したことからも明白である。こうしてトロツキーは非公然でありながら、党中央で絶大な権限を獲得し、それはレーニン亡き後の党内闘争で重要な要因となった。 しかしながら、民衆の大きな抵抗を排除して実施されるこのキャンペーンには莫大な経費が必要とされ、ネップにとってもっとも必要な経済復興の財源にはならなかった。新たな財源探しがはじまり、その手段として穀物輸出以外にありえなかった。穀物輸出を実現するためには、ロシア国内の飢饉はありえず、こうして22年10月に早すぎる飢饉の終息宣言が行われ、同時に最初の穀物の輸出が行われた。
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