資本主義の行末がいまほど案じられた時代はない。資本主義の行末を案じた先人としてまず思い出されるのはマックス・ウェーバーである。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に対して、近年羽入辰郎がウェーバーの史料の扱いが極めて杜撰であったことを文献学的に批判し、そこには作為的な「操作」の跡が感じられることを指摘した。ウェーバー史学の真骨頂はダイナミックな因果関係の考察にある。原因と結果の関係の蓋然性と意外性の絶妙なマッチが、ウェーバー・テーゼの魅力を醸し出す。これまでウェーバー・テーゼを批判するものは、因果の蓋然性に疑問を投げかけた。羽入の斬新さは因果の意外性だけに挑んだ点である。しかしそれだけでは不十分であることも明らかになった。ウェーバー・テーゼを塗り替えるためには、蓋然性と意外性に対する全面的な批判を用意しなければならない。 カルヴァン派の信奉する予定説が資本主義精神を生んだというのがウェーバーの説明の骨子である。これに対して従来のウェーバー「批判は、予定説がカルヴァン派の教義のなかで決して木きな比重を占めるものでないことを指摘する。筆者はカルヴァン派神学者の自己理解をうかがわせる文書、ルター派神学者のカルヴァンは批判の文書を考察し、カルヴァン派の教義のなかで予定説が決して大きな比重を占めるものではないことを改めて確認した。自己の救いを確信したいという個人主義的な動機が資本主義精神をもたらしたのではない。むしろカルヴァン派に独特の執事制度によって差配される貸付が、同胞信者の起業を助けた。このような制度はユダヤ人の間にもすでに存在した。宗教的マイノリティ内部の共存共栄のための互助が、資本主義精神をもたらしたという仮説を得ることができた。
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