研究課題/領域番号 |
22520758
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研究機関 | 大阪経済法科大学 |
研究代表者 |
藤本 和貴夫 大阪経済法科大学, 教養部, 学長 (70029734)
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研究分担者 |
華 立 大阪経済法科大学, 教養部, 教授 (20258081)
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キーワード | 日ソ国交樹立 / 全ソ対外文化連絡協会 / 中東鉄道 / スパルヴィン / トロヤノフスキー / 浦潮本願寺 / 太田覚眠 / 満州事変 |
研究概要 |
1. 日ソ国交樹立後、最初のソ連大使館書記(通訳)兼全ソ対外文化連絡協会の日本代表として赴任した極東大学のスパルヴィン教授は、数少ないソ連の日本研究者として、1927年の「新露西亜美術展覧会」や1928年の歌舞伎のモスクワ公演に大きな力を発揮した。彼ほど多くの日本の文学者や知識人と良好な関係をもった人物は少ない。しかし、1931年11月に中東鉄道の職員としてハルビンに「左遷」、1933年11月に同地で死去した。1928年、スパルヴィンの上司にあたる対文連会長カーメネヴァがトロヤノフスキー大使にスパルヴィンがモスクワを無視していると非難して交代を要求した際には、大使は彼を擁護できた。しかし、31年には日ソ関係の悪化、また彼の妻が日本人であったことなどにより、日本を離れざるをえなかったと考えられる。 2. 他方、1928年には日ソ漁業条約の発効によって、漁区の競売がウラジオストクで開始され、同市には浦潮本願寺や日本商社の勤務員らが居住を続けていたことを明らかにした。しかし、1931年9月の満州事変の勃発により、日本人小学校が閉鎖され、浦潮本願寺の太田覚眠も12月に同市を引き揚げざるをえなくなった。しかし、ウラジオストクの民間人はさらに残り、彼らが最終的に同市を追放されるのは、1936年の日独防共協定の締結である。同年8月、領事館員を除く全11家族がゲペウの捜査を受けて所帯主全員が拘留、37年末には浦潮本願寺の住職であった戸泉賢龍も刑期を終えて帰国し、民間の関係が途絶えたものと考えられる。
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