本研究の目的は、日ソ基本条約の締結(1925年1月)から1930年代初めまでの日ソ関係が比較的安定していた理由を、東北アシアにおける国際関係に注目することで明らかにすることにある。 1. 1920年代後半に安定していた東北アジアの国際関係が不安定化するきっかけとなったのは、中東鉄道の利権回収をめざす蒋介石に張学良が同調して起こった、1929年の奉天軍閥とソ連との中東鉄道をめぐる武力衝突にある。 2.この紛争は、奉天軍閥による中東鉄道のソ連系幹部の罷免や社員の逮捕・追放から始まり、ソ連系労働組合の抗議行動・ストを経て、最終的には両軍の軍事衝突となり、ソ連軍が奉天軍閥軍に圧勝した。同年12月のソ連と奉天軍閥間のハバロフスク議定書では現状復帰として決着したが、南京の国民党政府はこれを認めず、モスクワでソ連と直接交渉を開始する。日本は中立を宣言し、この事件に表面上は介入しなかったが、この事件に関する膨大な調査資料を残している。 3.ソ連にとって衝撃的であったのは、この事件で、中東鉄道で働くソ連国籍保持者のうちの35-40%(約4千人)しかソ連政府の政策を支持せず、残りの6~7千人は抗議ストの呼びかけに応じず、働き続けたことである。 4.ソ連にとって中東鉄道は、経済的には運賃収入の収入源であり、政治的には「北満州に対する中東鉄道で働くソ連労働者の影響力の基地」(スターリン)で、中国革命への影響が考えられた。しかし、1930年以降、世界恐慌の影響から鉄道の維持そのものが重荷となった。1931年の満州事変で、ソ連政府はソ連国籍従業員に中立を指示し、日本との対立をさけた。 5.1935年のソ連による中東鉄道の日本への売却は、中東鉄道ソ連籍従業員に対する日本の圧力とともに、ソ連が極東で起こりうる複雑な国際関係を回避しようとしたことにある。
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