研究者が,戦後の沖縄地域における「域内移民」として研究対象にしてきたのは,群島政府時代の1946~1951年に自由移民として入植,琉球政府成立後に計画移民に追認された移民と,琉球政府経済局の八重山開拓移住者募集(1952~1957)に応募・選抜され,同じく石垣・西表両島に入植した計画移民とである。これらはいずれも入植地毎に開拓団を組織し,未開の沃野を開墾,新農村建設を目標としていただけに,移民の資格は個人ではなく,満20歳以上60歳未満の農業を営んできた戸主と,開拓業務に支障のない構成状況下の同家族とであった。また,開拓世帯相互の紐帯は,20戸前後の地縁並びに血縁で纏められた郷友的性格を帯びた離散集団(ディアスポラ)の結成に求められていた。 併し,先遣隊員世帯名簿(入植直後),開拓集落世帯調査名簿(1964),開墾地買受者世帯名簿(入植10ヵ年後)を開拓団毎に比較検討すると,上記の二つの用件ですらも,移住者募集の都度,逐一吟味されなかったことが明らかになってきた。詰まり,1948~1953年までの開拓団(開拓集落)結成では,居住地区を班分けし,共同作業は集落全体で,模合は隣接の班も含め,結いは班内とする,沖縄の一般的な農業集落組織の創成の難易性が明確に意識されていた。具体的にはその核心は,同一市町村内の2~3の大字を出自地とする移住者の最少でも10世帯の纏まりの存在確認にあった。しかし,これ以降では,この精神に適う応募は少なくなり,代わって1市町村当たり5世帯未満の,10箇市町村以上も寄せ集まった開拓団が増え,各開拓団は退団世帯の多さと補充世帯の少なさに悩んでいた。 このことからしても,計画移民集落の存廃要因の一つが,既に開拓団結成時における地縁ならびに血縁で纏められた郷友的性格を帯びた集団の存否にあったことが実証された。
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