研究課題
本年度は、日本庭園の継承性について研究した。1907(明治40)年、横浜市北方町(現在の横浜市中区)出身の岸田芳次郎と広島県安芸郡仁保島村向灘(現在の広島市南区)出身の高田隼人は、ビクトリアのゴージ・パークに日本庭園を開園するため、岸田は父・伊三郎を呼び寄せた。息子・芳次郎とその盟友・高田の新しい事業のため、65歳の高齢であった伊三郎は太平洋を渡った。このゴージ・パークの日本庭園の評判によって、伊三郎はビクトリアでいくつかの日本庭園を造園した。すでに72歳を迎えていた伊三郎は、1912(大正元)年に帰国の途についた。彼の帰国後、ゴージ・パークをはじめとするビクトリア各地の日本庭園の整備を任されたのは、広島県深安郡加茂村粟根(現在の広島県福山市)出身の野田忠一である。野田は、妻・テルとともにカナダへ渡った。『海外渡航旅券下附表』によれば、彼らは同年12月11日に旅券を取得している。2人の「旅行地名」は「英領加奈陀」、そして忠一の「旅行目的」は「商請負業」、テルのそれは「夫ト同行」とある。そして、夫婦の結婚日と旅券申請日、そして岸田伊三郎の帰国が極めて近接している。このことから、岸田芳次郎は高齢であった父・伊三郎の後継者を探しており、坂井家を通じて父の帰国後における日本庭園の管理者を探し、それを野田に決めていたのかもしれない。1925年にゴージ・パークは失火し、日本庭園も焼失してしまった。そして、翌年に契約期間の満了を迎えた高田は、公園の経営から撤退した。同時に野田も、ここやブッチャート・ガーデンなどの日本庭園の管理を離任した。また、1959年にブリティッシュ・コロンビア大学における新渡戸稲造日本庭園の造園にあたって、直接かかわった現地の日本人ガーディナー、そして寄付活動をはじめとして間接的に関わった日本人社会の諸相について明らかにした。
26年度が最終年度であるため、記入しない。
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吉越昭久編『災害の地理学』、文理閣
巻: 立命館大学人文学企画叢書2 ページ: 193-210
公益財団法人・国土地理協会助成担当編『学術研究助成報告集』、所収
巻: 2014 ページ: 95-111
The Year of 2014 Membership Roster
巻: 2014 ページ: 22-27
55th.Anniverary,Vancouver Japanese Gardeners’ Association
巻: 2014 ページ: 92-97
広報みはま
巻: 520 ページ: 24