本研究では、16世紀半ばにおける石見銀山の本格的開発を契機とする新たな地域形成の展開を具体的に明らかにすることを目的としている。本年度は、本研究の最終年度にあたり、これまでに主に取り上げてきた、温泉津集落、宅野集落、浜原集落などを中心に、補充的な聞き取り調査や景観観察、古文書資料の収集を実施した。 近世初頭の温泉津町には、「老中」とよばれる有力者の集団があり、それらのほとんどは少なくとも中世末期に遡る由緒をもつ有力者であったことが従来から知られていたが、寺院調査などを通じて、中尾氏、増野氏など、比較的遅い時期に定着し、同一寺院の檀家としての結びつきを有した、新たな社会勢力があったことが明らかとなった。また、村上氏や松浦氏など、近世初頭までは町の有力な構成者であったが、比較的早い時期に他地域に移住した者があったことも明らかにすることができた。このような事実は、近世初頭の温泉津町の地域社会に大きな変化があったことを予見させるものであり、その具体像についてさらなる検討が求められよう。 宅野町は、銀山への鉄の供給地として形成されたということが従来語られてきたが、史料などによる明確な裏付けはなかった。本研究では、地名や江戸期の同集落における商業活動のあり方などを検討し、宅野が中世以来の鉄の集散地として知られた出雲国杵築町との深い関係を有していたこと、町の有力者による江戸期における鉄の生産と流通への関与のあり方からみて、この町が石見銀山の本格的開発に際して、鉄の集散地として成立、発展した可能性はきわめて高いという結論に至った。鉱山開発にとって、大量の鉄の確保は不可欠であっただけに、開発が本格化した時期に、鉄の生産、流通に関わる体制が整えられたと考えられる。そしてそれが、近世期の石見銀山周辺地域における製鉄業の興隆の基盤を形作ったことを、具体的に示すことができた。
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