研究概要 |
本研究は、12世紀半ば以降におけるイングランドのコモン・ローの成立を、同時期における学識法(ローマ法・教会法)の展開の中で的確に位置づけることを最終目的として、イングランドの代表的な教会法学者の著作と実務活動を写本レヴェルにまで立ち入って検討することを通して、初期コモン・ローに対する教会法学の影響を具体的に明らかにすることを目指すものである。 当初の研究計画によれば、本年度は1163-87年にロンドン司教であったギルバート・フォリオットの法理論および教会裁判における実務活動を考察する予定であったが、前年度、註釈学者ヴァカリウスの教皇受任裁判官としての活動について研究を進める過程において、婚姻法成立史においてもヴァカリウスの果たした役割が注目されることが判明したため、引き続きヴァカリウスの実務活動を中心に考察した。 ローマ教皇アレクサンデル3世は、H77年胴に、ヴァカリウスとシトー会のファウンテン修道院の院長を共同受任裁判官に任命する教令を出している(JL 3937)。これは後に『グレゴリウス教皇令集』(Liber Extra)に収録されることになる(X 4, 7, 2)。多くの写本が残されているが、英国図書館(British Library)蔵の3写本(Royal 10A H ; Cotton Vitellius EX III ; Egerton 2819)については、8月の英国出張において実際に閲覧し、比較・検討した。この教令からは次のことが判明する。第一に、アレクサンデル3世はすでに婚姻成立要件としての「同意説」を明らかにしていたが(この点については、1163年に原告アンスティーが勝訴した「アンスティー事件」が重要)、本件において、婚姻の約束は完行を伴うことによって成立に至るという「同衾説」も部分的に採用されたということ。第二に、ヴァカリウスは、115G年代後半に書かれた『婚姻論』において婚姻成立要件としての「占有引渡」を主張していたが、本件においてはそのような立場をとるヴァカリウスが受任裁判官に任命されているということである。このことの意味については今後さらに考える必要がある。
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