本年度は、収集した旅日記を整理、分析し、その成果の一部を中国四国教育学会において「近世後期の旅の学び―阿弥陀寺と壇ノ浦合戦―」と題して発表し、同学会紀要(『教育学研究紀要』58)に掲載した。 また、報告書を作成した。目次は以下の通りである。 I研究の概要 II西日本(中国・四国・九州地方)出発の伊勢参詣・上京日記一覧 III論説 近世旅人のみた宮島 近世後期の旅の学び―阿弥陀寺と壇ノ浦合戦― IV史料翻刻(井上頼定上京日記) 解題 上洛往来諸入用記(文化3年)上京往来雑費日記(文政13年) 上京往来日記・上京従発足往来雑費覚日記(天保13年) IIでは、西日本出発の旅日記85点について、記主、旅のルート、日程などを一覧表にした。III「近世旅人のみた宮島」は、次のようにまとめた。宮島は、17世紀に名所として認知されるようになり、1800年前後には名物や土産物が売られるようになった。遅くとも19世紀初めには名所としての必要条件が整い、近隣諸国から多くの人びとを集め、東日本からも集客するようになった。安芸国内や近隣から訪れる人びとは、市立て期間中の芝居見物や管絃祭の歓楽を求めて、あるいは石風呂や島廻りを目的とした長期滞在型の旅が特徴的であった。遠隔地からの旅人にとって厳島は、伊勢への中継地点(あるいは延長旅行先)に過ぎず、半日から一日で島を去る場合が一般的であった。「近世後期の旅の学び」については次のようにまとめた。阿弥陀寺は、中世においてすでに安徳天皇像や平家一門肖像を備え、16世紀末から秀吉などの来訪者の短冊を蓄積し、17世紀末に名所としての形を整え始め、遅くとも18世紀半ばには名所として確立した。近世後期には、安徳天皇縁起絵による絵解きがおこなわれ、略縁起が板行された。絵解きや略縁起は、阿弥陀寺についての均一的な知識を定着させることにつながったと考えられる。
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