本研究は、第一に、近世前期日本の教育を、広く政治的・社会的・文化的な脈絡の中に織り込まれた出来事として明らかにすること、第二に、文化史研究の知見を取り入れ、従来の日本教育史研究のカテゴリーを超えて、その時代に行われた漢学に関する研究・教育を日本社会の共時的な事象として考察をすること、第三に、中国語との関係性を指標として近世前期の漢学研究・教育の根底にある外国文化摂取の側面を解明することを企図して進められた。本年度は、近世前期の漢学教育機関のうち、江戸幕府の教育態勢を方向づける上で重要な役割を果たした林家塾-後の昌平坂学問所-を取り上げ、幕府の教育態勢と林家塾との関わり、林家塾が幕府の管轄下に入る経緯を辿ることを研究の中心に据えた。江戸前期、戦国の後に幕府を開いた徳川家康より、二代秀忠を経て、三代家光までが強力に推し進めた武断政治は、比較的に安定期に入った四代家綱の治世において文治政治へと転換された。幕府・諸藩の為政者は新たな社会を構成する原理として儒教に大きな期待をかけた。従来、幕藩体制という武家による政治体制下において、武家ではない儒者林家の人々はあくまで御伽衆であり、政治的に重要な地位が与えられなかったと考えられてきた。しかしながら、林家塾の当主たちは、客観的に明瞭な形では重要な地位に就いていなかったものの、老中をはじめとする幕府重臣という政権の中枢にいた権力者たちと日常的に往来して、文教政策に関して自らの意見を開陳し、幕府の教育方策を制定するに当たって多大な影響力を持っていたことが明らかになった。なお、東北地方太平洋沖地震の発生により中国行き航空便が欠航し、成都・長沙での中国近世学術機関に関する史料の調査実施が困難になったため、当初の計画を変更して補助金を繰越し、翌年度に調査を実施することとした。
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