江戸幕府の儒者林羅山(1583―1657)が幕府の手厚い援助を受けて創設し、儒学研究をその存在の根幹としていた上野忍岡の林家塾(後に神田湯島に移転し湯島聖堂の学問所となり、更に後、昌平坂学問所となる)は、第二代当主林鵞峰(1618―1680)の時期、彼の努力により発展し、林家および林家塾の地位は高められた。それを示す重要な出来事が、寛文三年(1663)幕府より鵞峰に、唐代貞観期の「弘文館学士」に近似する称号「弘文院学士」が与えられ、それに因んで林家塾が「弘文院」と呼ばれるようになったことである。 将軍家綱から鵞峰に「弘文院学士」の称号が授与された理由は、父羅山が訓点をつけた『五経大全』の講義を二十三年間(寛永十八年(1641)―寛文三年(1663))たゆまず続け無事完了したからであった。鵞峰は自分に与えられた「弘文院学士」を、唐太宗の政治顧問として文教政策の決定に影響を及ぼした唐代貞観期の「弘文館学士」に重ね合せて認識していた。 中国の学問に通暁し、中国の歴史を熟知していた林家は、漢代以来、中国の歴代王朝を支えてきた儒教の理論体系が、徳川政権を支える理論体系として組み込まれることを強く希求すると同時に、林家自身が、唐代貞観期の「弘文館」のように、全国の文教を司る頂点の地位に立つという明確な達成目標をもっていた。 中国に倣った儒学者の称号「弘文院学士」が鵞峰に与えられたことは、政権中枢にいる幕閣たちに対する林家の積極的な働きかけと、中国の学問に通じた林家に対する幕閣たちの手厚い庇護という相互作用によるものであり、江戸前期の幕府文教における中国文化の摂取を示す一つの事象である。
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