これまで、学校儀式における国旗と国歌とは、セットのものとして扱われ、考察されることが多かったが、本研究では、これらの成り立ちが全く別であるという歴史的背景を重視して、それぞれ独立した視点から考察を進めた。国歌については、明治初期に少なくとも、三種類の「君が代」が生まれ、小学校祝日大祭日学校儀式規程が制定されても、二つの「君が代」が併存したが、1893年には文部省告示により儀式用唱歌としての「君が代」が現行のものとされ、儀式用唱歌から国歌になるに至り、学校儀式とは密接な関係を持つに至り、祝日以外の学校儀式にも深く入り込んだ事実を明らかにした。 一方、国旗についてであるが、国旗の掲揚は明治維新の一時期、政府により奨励されたことがあったが、1877年になるとその必要なしと判断し、以後1923年に至るまで、公の機関での国旗掲揚に熱心ではなかった。こうした影響もあり、学校儀式に国旗が登場することは、1920年代半ばまでは、ほとんど無かった。1923年以後、祝日などにおける国旗掲揚が推奨され、その後祝日学校儀式の当日掲揚されることが増加したが、国歌ほど普及したものでは無かったこと、そして、国旗制式には二つの制式の論争が繰り広げられ、この問題に一応の決着がついたのは1940年であり、それは国定教科書における扱いを確定するためであったことも明らかにした。 さらに、国歌については、「君が代」の作曲者がお雇い外国人エッケルトであったこと、また局そのものは国歌として作られたものでは無いという事情から、国旗については、二つの論争が存在したことなどの理由から、戦前の学校教育ではこれらの教育に熱心でなかったことも明らかにした。
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