上京学生のために旧藩ごとの寄宿舎の開設が流行となるのは、明治二十年代に入ってからである。このタイプの寄宿舎で、最も早い時期のものは、旧加賀藩地域(加賀・越中・能登)出身学生の寄宿舎である「久徴館」である。同館は、明治15年、県からの留学生8名が集い、「人材養成ノ目的ヲ以テ一社ヲ起サンコトヲ議シ」総則十一条を定めて興された結社がその端緒である。本研究においては、『久徴館同窓会雑誌』の記述を分析することによって、下宿屋ではない"同郷会型寄宿舎"に集った学生の諸相をたどり、学生気質の変化とその社会的背景を探った。さらに、郷友会の初期メンバーとなっていく久徴館の在館者の特徴を明らかにすることによって、「流動エリート」の地元-中央の関係について考察した。 その結果、「故郷」の記憶を絆やアイデンティティを"再発見"し、これを拠り所にしようとする"同郷会型寄宿舎"の登場は、学生たちの「学生生活」への楽しみを希求する願いに応えるとともに、同郷集団に所属することによって立身出世を水路付けしたいとする野心にも応えるための、ひとつの解決策として機能していたことが明らかになった。これは、坪内適遙が『当世書生気質』の中で夢想した学生の連帯の形とはいささか異なる方向であったが、久徴館の意外な不人気と明治29年に至る閉館をみれば、坪内の慧眼ぶりに驚かざるを得ないともいえる。久徴館は当初から次のような問題を抱えていたことが明らかになったからである。第一に、「館長」の引き受け手がいなかったこと、第二に、学生の転居が頻繁であったこと、第三に、東京遊学者の減少、第四に、施設の維持管理費の問題、である。
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