防火都市はどのように形成され、そしてその効用と限界はどのようなものであったのかを主題としてきた。 京都は、中世以来賀茂川の水を灌漑と防火の用にあてた。最上流の上賀茂神社が水の支配権をにぎり、京都盆地には堀川水系と御所用水水系を中心に水を供給していた。平安京は先住の賀茂族の下流に町を形成し、御所もその下流であることには変わりがなかった。したがって、夏季の田植え時には、上流の上賀茂神社の支配している土地(賀茂六郷)の田畑の灌漑が優先され、御所と京都の町の防火用水は不足した。京都御所内は禁裏東側の池が防火用にあてられたが、これも枯渇し御所側から上賀茂神社へ水供給がしばしば申請された。 明治6年上知令により、神社仏閣の土地は官有地に収監された。このとき、上賀茂神社の土地も官有地となり、のちに耕作民に払い下げられた。一方、賀茂川の支配権も官有となり京都府に所属する。これによって、賀茂川および御所用水も官有となって京都、および御所の水不足も解消されるはずであった。しかし用水の管理人として上流村々の総代を任命したため、彼らは渇水時には村の権益を優先し、水を村々へ流した。この根本的解決が明治23年竣工の琵琶湖疏水で、これら村々も灌漑しつつ、京都と御所の防火目的でつくられた。しかしながら、水の所有の構造は、慣行水利権が優先し、村々が渇水時には優先的に水を使用し、京都と御所までの余裕がなかった。根本的解決は御所「水道」の完成をみる明治45年で、つまり、防火の目的は、専用のラインをつくること、かつ圧力送水で木造家屋の屋根まで水がかかるシステムにすることで解決される。 このことは、岡山でも実証される。近世の防火は城の堀からめぐらされている用水で、火事の際はバケツリレーで消火した。効果はなく、明治38年の水道完成で解決した。東京の関東震災の例は、局所風の壁による水による消火不可能なケースであった。
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