本研究は、古代宮都の完結形となった平安宮の宮殿建築を主たる対象として、日本における宮殿に採用された建築形式について分析し、宮殿建築の社会的性格や、採用された建築形式はどのようなものであったか、そしてそれは中国を中心とした東アジア文化圏においてどのように位置づけられるものかを明らかにして、宮殿建築にとどまらず日本の建築がどのような志向性を持ち成立したかを比較文化的な視点からの知見も得ることを目的としている。 東アジア諸国の宮都における中核殿舎の建築的な実態把握を、考古資料と文献史料の整理・検討によって行った前年度の成果を踏まえ、今年度前半では、平安宮大極殿の建築的な実態の整理を再度行うことが年度前半の分析作業であった。特に、奈良時代後期から平安時代初めまでの遷都に伴い大極殿がどのように変化したか、また平安時代において焼亡の後に再建された大極殿が、どのように変化したか、またどのように当時の人々に認識されていたかに着目して建築的な指向性を考察した。 年度後半では、日本、中国、渤海や高句麗など東アジア諸国の宮都中核殿舎との比較検討を進め、古代東アジア地域の社会情勢との相関の分析を合わせて、宮殿建築の建築的な実態と歴史的な意義について考察し、研究の総括を行なった。 なお、前年度での実施を見送った中華人民共和国における長安大明宮含元殿址実態確認調査であったが、渡航を計画していた夏期休暇期間における国際情勢の変化によって、実施を見送らざるを得なかった。 中国・朝鮮の各種史資料や研究書の購入、朝鮮語など筆者未知の文献の翻訳の校閲謝金、日本における文献史料の整理打ち込み、図版整理に謝金を支出した。
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