研究概要 |
1.論文投稿について 明治30年代,宮城県においては、日本赤十字社の準備看護婦・宮城病院で養成の看護婦・郡部での速成看護婦が存在した。教育期間や役割内容に差があるにもかかわらず同じ「看護婦」という名称で混在していたため、統一する意味で宮城県看護婦規則が制定される必要があった、と結論した。ところが、査読コメントでは「看護婦会の増加による劣悪な派出看護婦を規制する必要があったためではないのか、東京の看護婦規則はそのような背景で成立した」との指摘であった。明治37年のデータを例にみると,東京では公立病院4私立89,宮城県では公立6私立4、医師の数東京では大卒444公立卒448試験合格1359従来765、宮城県では大卒28公立卒157試験合格130従来405となっている。ほかに派出看護婦を雇う裕福層の市民の数、看護婦会の数など、中央とは比較にならないほど地方では少ない。中央での現象が地方でも同様におこっているわけではないのである。このような認識を修正するためにも、中央と地方の違いを扱った本研究は意義があることが明らかである。本論文の知見を補強するデータを県立図書館のマイクロフィルム資料から発掘作業を継続中。再度投稿予定である。 2.青森県,秋田県の看護教育成立の背景について 青森県のデータについては先行研究から概略を把握し,不足資料を検討中。秋田県のデータについては,秋田県史明治編,明治資料編,秋田県看護史から看護師養成に関する記述を探索した。明治29年に日本赤十字社秋田支部救護看護婦養成開始,秋田病院2年本社病院1年,明治33年平鹿郡立看護婦養成所開設とあるのみで,その背景については記載がない。今年度の秋田現地調査で,秋田魁新報明治32年7月30日p2に秋田病院における看護婦養成規則を確認でき,看護婦養成の動きを調べる手がかりが得られた。
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