研究課題/領域番号 |
22592359
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研究機関 | 東北大学 |
研究代表者 |
小山田 信子 東北大学, 医学(系)研究科(研究院), 准教授 (40250807)
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研究期間 (年度) |
2010-04-01 – 2015-03-31
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キーワード | 看護教育 / 歴史 / 地方 / 明治期 |
研究概要 |
宮城県の看護教育成立過程を歴史学会再投稿,秋田県の看護教育成立過程については日本看護科学学会にて発表し,現在青森県,岩手県については文献による解釈の整理を行いつつある。 宮城県では,日赤の2年教育課程の準備看護婦,宮城病院で採用する1年課程の看護婦,伝染病対策の3ヵ月教育課程の速成看護婦が存在した。同じ看護婦の名称で,役割教育内容が異なるため,統一する必要があり明治38年宮城県看護婦取締規則が制定されたと結論した。 秋田県における看護婦教育成立過程の背景は伝染病対策が主たる要因と考えられた。①他県の3ヵ月養成による速成看護婦が有効であることの情報が入っていたこと,②中央衛生会局長の看護婦養成推進演説『伝染病隔離避病院は警察事業ではなく信用のある医師と相応の看護婦を備え,看護婦養成を図り病院に供給すること』の存在,③明治31年県議が看護婦養成の建議提出した事,④各府県衛生主任会議において出席者が報告すべき事項に「看護婦の現状及びその養成」が明記されていた事,⑤歩兵第17連隊が全部秋田に転営のため軍事衛生上伝染病予防はより切実であった事,⑥明治32年秋田県議会文書に,33年から衛生補助費に看護婦養成費用計上されていた。上記①~⑥を考慮すると,秋田県における看護婦養成の背景にはやはり伝染病が大きく影響していたといえる。 青森県,岩手県では,関連文献では日赤の看護婦養成が先行したとされている。青森県における最初の組織的な看護婦養成の開始は戦時救護という時流にのって行われた(大串靖子ほか2005)とある。確かに宮城県でも日清戦争に応ずべく速成看護婦養成が明治27年に行われ,そのことが宮城県における日赤看護婦養成開始(明治30年)の契機になっていた。これから調査を行う福島県,山形県のあり方と合わせて解釈が必要である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
研究代表者の健康上のトラブルや資料収集に制限があったこと等で,その前年分までが遅れ気味であった。また秋田県の調査においても,一部の資料のマイクロフィルム保存形態が一コマずつ天地が逆になるという通常とは違った状態であったため,資料確認閲覧に予定以上の時間を要した。最終年度は遅れ分を取り戻すべく,時間の確保および連携研究者との連絡取り方を見直し,工夫する。
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今後の研究の推進方策 |
資料の収集・解釈を効率良くするために,現地収集資料の整理・解釈・検討を,情報機器を使用するなどして連携研究者とのディスカッションを時間のロスがないよう工夫する。 看護歴史研究会や学会に参加する事により,他地方での看護教育の発達経緯の情報が得られた。中央・宮城秋田青森とは違った背景要因であり,東北地方での看護教育成立過程の解釈の視野が広まった。地味ではあるが,本研究の必要性が再確認されたといえる。医療だけでなく社会・経済・生活事情など看護をとりまく背景を吟味し,東北以外の地方における看護教育成立過程解明も課題であることが示唆された。
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