福島県の看護職教育の経緯について日本看護科学学会に発表を行った。福島県では医師不足と県の経済事情から、看護学校に産婆の教育も任せる発想に至った。 山形県と青森県の現地調査を行った。山形県青森県ともに火災によりそれぞれに県の資料を消失していた。 現存する当時の地方新聞を確認し,山形新聞明治9年9月分から閲覧し看護関連記事の発掘作業を行った。明治20年1月5日の記事によると,済生館内に産婆伝習所があり,専任教員が異動になり,生徒のうち3名を教師とし産科を教授させるとの記載が確認できた。山形県通常県会筆記によると,明治21年度報告として産婆講習所費が計上され,続く23年度予算議案として、「産婆講習所廃止の今日に至り・・将来新たに開業する者に濫弊を生じるの恐れあるにより、産婆術検定試験費の一項を新設・・」とあった。つまり明治21年までは産婆養成所が予算計上されその後22年養成所は廃止され,23年の予算編成では,養成所卒業生による各地の産婆術検定試験が計画され予算計上されていた。済生館は私立の病院として存続していたたが,そこでの看護職教育の有無については記載が発掘できていない。 青森県については,地方新聞「東奥日報」から状況を把握した。明治22年には私立衛生会の演説会が青森各地で開催されていることが確認できた。22年に弘前における私立衛生会の演説項目に,竹内軌栄「看護者の心得」があり,看護者の役割や要領について意識教育が行われたことがわかる。大日本私立衛生会青森県支会が設立されたのは明治23年7月19日である。看護職の教育として,明治23年に長谷川有造が産婆養成の必要を提言し産婆教習所を開設している。長谷川は青森県医学校の卒業生である。明治18年東京に遊学し,帰郷し弘前病院,鰺ヶ澤病院,その後青森で開業している。看護婦養成に先行して産婆養成の動きがみられた。
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