江馬細香は江戸時代後期を代表する女性漢詩人であり、また水墨画を描く画家でもあった。平安時代から男性言語であった漢詩文の世界に、彼女はなぜ踏み入り、それに生涯をかけたのか。本研究は漢詩と絵画の両面から、細香のアイデンティティー形成の過程を追い、江戸社会における女性詩人の生をジェンダー論の立場から考察するものである。漢詩文の分析においては主に竹を題材にした詩を若年から晩年にいたるまで追跡し、竹に込められた表象の変化を明らかにした。竹は結婚せずに墨竹画に生涯をかけた細香自身の姿であり、また後を託す子供であり、生涯の伴侶でもある。しかし晩年にいたると細香は「胸中無成竹」といい、さらに理想の竹の表現を求めてやまない。水墨画においても、このような細香の内面の変化が現われており、またその筆致の分析によってその内面の変化がどのような境地によってなされているのかが窺われる。またその漢詩と一体となった細香の墨竹画には、言語化されない細香の内面が表現されている。「胸中無成竹」とは、絵画における表現のあくなき追求を示す言葉でもあった。細香が求めた胸中の成竹とはなにだったのか。それは細香の漢詩と墨竹画の両面から追求されなければならない課題である。期間内に成果の全体を活字として発表することはできなかったが、今後本研究の成果にもとづき、細香像の全体をまとめるとともに、近世のジェンダーの境界を細香がいかに踏み越えたのか、またそれは近代のジェンダーの規制とどのように異なるのかを明らかにしたい。
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