セネガルのウォロフの学者イブラヒマ・ニアスがカオラックで創設したイスラーム神秘主義教団ニアセンは、スィン、サールム地方に優越する民族である農民セレールと漁民セレール・ニョーミンカの支持を集めている。セレールは1800年代半ばにジハードの被害を蒙ったが、彼らはジハードによる改宗を拒否し、のちにニアセンを含む諸教団の平和的な布教によって改宗したこと、彼らは主体的にイスラームを選び取ったという自覚と誇りを持つことが確認された。ニアスは近隣のセレールやセレール・ニョーミンカに対して地縁、血縁を駆使した積極的な布教を行ったが、セレールは、ニアスは彼らが伝統的に持つところの非イスラーム的な神秘的な力と高潔な気質を護教に利用することを望んで、セレール女性と結婚しまたセレールの弟子を集めたと考えている。セレールにとって彼らのエスニシティは、改宗後もイスラームの内部で保たれていた。セレール・ニョーミンカはスィンの島嶼部を故地とするが、彼らはカオラックの創設者であり、また漁舟を操り容易に島嶼部からカオラックへ出稼ぎに来ることから、最初期から多くのニアセン信徒を出した。したがって、外港と鉄道の駅を備え落花生交易の中心であるカオラックの経済的・政治的求心力がニアセン教団拡大の別の要因だった。 ニアスが創出した宗教教育タルビーヤの方法によって、短期間で万人が神を知ることができるというニアスの主張によって、ニアセン教団はモーリタニアをはじめ西アフリカ諸国に拡大したのだが、セレールの農民・漁民は後進的な農村漁村に住みながらも世界的規模のイスラーム共同体の一員という自覚と誇りを持っていた。ニアセン教団は、その創設された地方の住民のエスニシティ維持と、人種、民族、国境を超越する世界市民主義的なイスラーム共同体の唱導という、2つの対極的な性格を持つことが明らかになった。
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