本研究の目的は、トルコ初の公立音楽学校「ダーリュル・エルハーンDarul-elhan」(1917年設立)が1927年に「イスタンブル音楽院」と名称を変更したこと契機に、創設時より教授してきたトルコ古典音楽教育をなぜ廃止し、西洋音楽教育に転換を図ったのか、その背景を検証することで、オスマン朝末期から共和国建国期にかけての「トルコ音楽」の西欧化の実相を明らかにすることにある。 上記の目的を達成するため、(1)両音楽学校の設立背景の概要、(2)ダーリュル・エルハーンにおける西欧化の進展の実相、(3)音楽院体制変革をめぐる議論、という三つの考察軸を設定し、初年度においては、まず二次資料を中心に上記(1)両音楽学校の設立背景にかんする概要の整理に着手した。さらに一次資料の所蔵調査と収集のため、2010年8月および2011年2月にイスタンブルおよびアンカラにおいて調査をおこない、ダーリュル・エルハーンが1924年から26年まで刊行した機関誌『ダーリュル・エルハーン・メジュムアス』全7巻分の複写資料を入手するとともに、同音楽学校が1926年から出版を開始したトルコ民謡集、およびトルコ古典音楽譜例集がアタテュルク図書館に所蔵されていることを確認した。 現在、上記『ダーリュル・エルハーン・メジュムアス』を中心に読解作業を進めているが、現時点で指摘され得ることは、同誌が当初は西洋音楽とトルコ古典音楽に関連する内容をほぼ均等に扱っていながらも、巻を重ねる度に西洋音楽へ比重を増していった点である。これは1926年のトルコ古典音楽部門廃止に向けての動向が同誌にも反映された結果とみなすことが可能であろう。これら資料の検証には、アラビア文字からローマ字への転写、さらに日本語への抄訳が必要となり、その解読作業には相当の期間を要すること推測される。次年度においても同誌の解読作業を継続させながら、両音楽院の設立背景の実相と体制変革をめぐる議論の検証を進めてゆく。
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