本研究の目的は、1917年に誕生したトルコ初の公立音楽学校「ダーリュル・エルハーン」が、設立当初からトルコ古典音楽教育を廃止し、西洋音楽教育に転換を図った背景とその実相を検証することで、トルコ共和国建国期にける「トルコ音楽」の西欧化の具体例を提示することにある。上記の目的を達成するため、(1)ダーリュル・エルハーンの設立背景の概要、(2)同音楽学校における西欧化の進展、(3)体制変革をめぐる議論と実相、という三つの考察軸を設定した。 本年度においては、とくに(2)西欧化の進展および(3)体制変革の実相に焦点を当てるため、2013年2月から3月にかけて約二週間、イスタンブルのアテュルク図書館や首相府オスマン文書館等において一次資料の収集と調査をおこなった。本調査では、ダーリュル・エルハーンが西洋音楽教育に比重を移す時期(1923年以降)の新聞記事(Vatan Gazetesi等)の収集、さらに1926年に古典音楽教育が廃止されるあたり告知された通達および条項の確認をおこなった。これら資料の読解作業は現在も継続中である。 なおダーリュル・エルハーンが1924年から26年まで刊行した機関誌『ダーリュル・エルハーン・メジュムアス』の解読も継続中であるが、とくに第一号(1924年、38ページ目)に掲載されているダーリュル・エルハーンの「新体制」に関する項目では、西洋音楽と古典音楽の二つ部門から構成される同音楽学校が「ヨーロッパの音楽院」を模倣してつくられていること、さらに修業年などに関する記述等も含まれていることから、当時の学校体制を知る上で重要な箇所となることが指摘される。
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