本研究の目的は、9.11同時多発テロ以降のイギリス小説(たとえば、イアン・マキューアン『土曜日』)などが多文化社会と暴力をいかに表象しているかを探ることである。とりわけ(1) 9.11以前のテロ表象(たとえば、ジョーゼフ・コンラッド『密偵』)や同時代の他言語文学(ヤスミーナ・カドラ『テロル』)と比較して暴力表象がどのように異なっているか、(2) 新左翼思想や多文化主義政策への幻滅がどのように作品の世界観に影を落としているか、という2点を明らかにする。平成24年度は、パット・バーカー『ダブル・ビジョン』とマーティン・エイミスと批評家テリー・イーグルトンの間で起こった2006~7年の筆禍事件を中心に研究した。平成24年9月にオックスフォード大学マンスフィールド・コレッジで開催された国際学会では、『ダブル・ビジョン』における暴力表象についての研究発表をしたのみならず、9.11について文学研究者以外の発表を聞き、意見交換ができたのは大変有意義であった。『ダブル・ビジョン』は暴力表象をめぐる美的・倫理的ジレンマを主題としており、そのようなジレンマを経ずに暴力を「非理性的なもの」「他者」に結びつけてしまう(平成23年度に研究した)『土曜日』とは好対照をなしている。なお、この研究発表は論文として電子出版される予定である。また、『Albion』に掲載された論考「現代英文学の『ある傾向』──マーティン・エイミスの発言をめぐって」では、この論争で「勝った」かたちになったエイミスの用いた論理が彼の作品の傾向のみならず、近年のイギリス文学におけるひとつの傾向を形成していることを指摘した。
|