今年度は、本研究の目的である声明譜における長短記号「火」「短」「矢」「豆」「消」「引」「延」「持」「長」について、歴史的変遷と音韻との関係について考察した。まず記号の歴史的変遷について、日本語で唱える声明の譜本における長短記号を、152点の資料によって調査し、次の結果を得た。 短音記号は、天台宗系統の譜本では鎌倉時代から使用例があり、讃嘆など、片仮名交じり文の譜本において和語を中心に使用される。真言宗系統の譜本では南北朝時代から使用例があり、漢文を訓読する声明において当初は漢語から使用され始めたが、室町時代以後に和語に波及していった。一方長音記号は、その歴史は短音記号よりも浅く、真言宗系統、天台宗系統とも南北朝時代から見られる。「延」については漢語に使用されやすいという傾向が見られる。全体として講式を中心に句末で多く使用される。 次に音韻との関連について、先行研究によって指摘された、短音記号が母音の無声化を反映しているという説を検証した結果、講式譜をさらに広汎に調査しても短音記号の音声環境上の分布と無声化の分布とに類似点が認められることが確かめられた。さらに、無声化生起に関わるアクセントの条件が、節博士から推定されるアクセントと短音記号の対応にも認められる。よって講式譜に見られる短音記号は、基本的に音楽的要請によって付されているものの、結果的に言語的な現象である母音の無声化を反映していると結論づけられる。 これらの短音記号は無声化を反映しているとはいっても、歌謡上で実際に無声化が行なわれたわけでなく、無声化が意識されやすい環境において母音が短く唱えられ、それが短音記号の分布に多く表れていると、分布上の特徴からは解釈される。
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