「朝鮮資料」は原文と対訳文の関係が互いに影響を受けている相互依存的なものであること、また「朝鮮資料」の日本語と朝鮮語の中には、それぞれの言語の変遷に対応するための措置が頻繁になされていることが分かった。 例えば「朝鮮資料」の否定文を一例に挙げると、朝鮮語の否定素(NEG)が用言の後に来ることが極めて多いことが分かる。当時朝鮮語の否定文には、NEGが用言の前に現れる短形と、NEGが用言の後に現れる長形が共存しており、朝鮮国内文献内での出現比率はそれぞれ半分ずつ占めている。当時日本語の否定文は専らNEGが用言の後に現れることから考えると、以上の様相は、対訳文(朝鮮語)が原文(日本語)の影響を受けた結果と判断される。 一方、今まで不明な点が多かった苗代川朝鮮語学習書の系統に関して調べた結果、いわゆる苗代川本は筆写者の家門と出身によって、言語の相が異なることを確認した。現地調査の際に入手した「家系図」の人名を分析した結果、学習書の主な筆写者は苗代川朝鮮通事を歴任した朴家の二家、「寿悦家」と「平覚家」に二分されることが分かった。 例えば『交隣須知』の場合、沈寿官家には文政本と天保本との二本が存在し、また同一書名の京都大学本が伝わっている。異本における内容や形式を比較してみると、天保本と京都大学本が同様である反面、文政本は異質である。これは前者が「平覚系」に、後者は「寿悦系」に属するため導かれた結果である。つまり苗代川本の系統は寿悦系祖本と平覚系祖本と大別されるが、この事実は、当時の朝鮮通事教育は主に家門別に行われていたことを示す重要な証拠となる。
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