本研究は、「書」文化の伝播に重要な役割を果たした法帖を取り上げて、その需給が最も拡大した清代における刊行事業の実態に迫るものである。特に、清朝の最盛期を現出した康熙~乾隆期に焦点を絞り、満洲族皇帝たちが中国支配を確立しその伝統文化を取り込んでゆく過程で行った、法帖刊行をはじめとする種々の「書」文化政策の実態を解明し、ひいては皇帝権力と「書」文化との関係を明らかにする。本年度は最終年度であるので、これまで蓄積した研究成果を論文としてまとめる作業に多くの時間を費やし、「康熙帝による「書」文化政策の一端―その法帖刊行事業を中心に―」と題した論考を公表した。本稿は康熙帝による「書」文化政策の中でも、特に歴代の書蹟を集刻した『懋勤殿法帖』および康熙帝の専帖たる『淵鑑斎御筆法帖』の刊行事業を取り上げて、これまで殆ど検討されることのなかった康熙帝自身による「書」文化への積極的働きかけ、換言すれば「書」文化の政治的利用の実態を明らかにしたものである。その要点は以下の通り。(1)『懋勤殿法帖』の刊行事業は、「書」文化を尊崇し不朽の業績を残した唐太宗・北宋太宗ら「右文之君」を承け継がんとする意志、更には清朝を明朝の後を承けた正統な王朝として位置づけようとする明確な意図のもと行われた。(2)『懋勤殿法帖』に引き続き刊行された『淵鑑斎御筆法帖』にはその刊行事業に携わった米漢ブンらによる奏摺が刻入されている。それによれば、本帖の刊行は表向きには康熙帝自らが率先したものではなく、康熙朝の輝かしい「文治」を宣揚すべく帝の素晴らしい御書を法帖として刊行しようと願った漢人官僚らによって強力に推進されたという形をとっている。(3)本帖はのち康熙38年(1699)の南巡の際に、康熙帝自らが臣下に下賜することによって文化の先進地たる江南地方で実際に伝播していった。「起居注」に見える事例だけでも30件近い数に及ぶ。
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