山寺立石寺の石造文化財の全容が、ほぼ明らかになった。山麓や参道、奥の院地区に988基存在し、その内訳は「磨崖供養碑」256基、「石塔」(墓石や供養塔)606基、「石燈籠」113基、その他の形状のものが13基であった。年代的には、近世前期から参道の要所に磨崖供養碑が刻まれるようになり、近世中頃を境に石塔が主流となって、さらには近世末期には石燈籠が出現するようになる。特に磨崖供養碑に関しては、近世における地域の様相を解明する上で重要な情報が含まれていた。形状は2基を除き板碑形で、頭部の分類から約30年ごとに形式変化していることがわかった。山内では最も早く建立されるものだが、そこに確認できる地名は「山形横町」「山形六日町」「西里村」「新庄舟形町」「高橋村」「寒河江西町」山形県と、村山・最上地域に限定されていた。施主も「片桐市郎兵衛」「市村惣兵衛」「市村一良治」「伊藤金兵衛」「和久井次左衛門」「邊見」「大沼想右衛門」などの人物名が存在することからも、近世の前半期における山寺立石寺は、地域密着型の霊場であったといえよう。この時期に浄土宗や浄土真宗等の戒名が刻まれていることも確認できた。なお、石塔の建立が主流になる段階を迎えると、建立主体が地域的に広がりをみせると共に、形式にバリエーションが生まれる。 比較検討対象とした霊場の石造文化財の調査検討も進めた結果、山寺立石寺との違いが浮かび上がってきた。例えば出羽三山では、近世の早い段階から東日本全域の多様な石塔が存在し、対照的といえる。また慈恩寺のように、寺域内の石塔が僧侶に関連するものが圧倒的で、それゆえ近世期を通じて一貫して形式等にバリエーションが乏しいこととも、異なる。石造文化財にみえる相違が、そのまま霊場の特質を反映しているといえる。こうした関連霊場の調査を本格的に進めることで、より立石寺の性格が明らかになる可能性があろう。
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