本研究では、商事法廷の組織・制度の整備だけでなく、イングランドの商事法規範の形成において商事法廷の専門部としての特質がどのように発揮されたのか、も考察する。平成22年度は、事例研究として、契約交渉過程において、合意事項として契約書面に記載されない、当事者の主観的意図の表明(たとえば、契約締結までの、当事者間の口頭または書面でのやりとりや、暫定的合意)を、契約解釈の際に証拠として採用することはできるか、という問題を取り上げ、近年の貴族院判決(Chartbrook Ltd.v.Persimmon Homes Ltd.[2009] UKHL 38 ; [2009] 1 AC 1101)を起点に19世紀に遡って判例を検討した結果、以下のことが明らかにされた。 口頭証拠排除準則parol evidence ruleの適用により、契約内容が書面にされると、原則として、裁判所は、契約交渉過程での当事者の主観的な意図の表明を、書面にされた契約内容の修正のための証拠として採用することはできない、とされた。書面以外の証拠に基づいて書面にされた契約内容の修正を許容すれば、逆に当事者間で後日無用の紛争を誘発しかねない、と懸念されたためである。裁判所のこのような姿勢は、紛争予防を望む契約当事者には書面作成のコストを強いた反面で、書面を通じて契約当事者の予測可能性を保障した(この点を現在もなお、イングランドの裁判所は、コモン・ローの長所と評価する)。ただし、書面の作成は、その記載内容が完全で正確であることを常に保証するわけではない。そこで今後は、契約交渉過程での当事者の主観的意図の表明が、特に商事法廷で、契約内容の確定(契約の解釈に限らず、契約の訂正rectification of contractも含む)の際に、例外的にであれ、どのように活用されたかを、判例の検討を通じて検証する。
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