本研究課題の目的は、描くことの認知的な基盤を明らかにすることである。前年度までは、おもに、なぐりがきから表象描画への移行期に焦点をあてて研究をおこなってきた。ヒト幼児とチンパンジーを対象とした描画実験からは、描くことの進化・発達的な起源における、表象描画と概念イメージ生成、言語発達との関わりが示唆されている。 本年度は、おもに物を見て写実的に描くことと概念イメージの解体との関連についての検証をこなった。デッサンの熟練者と非熟練者のヒトおとなを対象として、倒立図形、図地反転図形、錯視図形などの刺激図形を用いた模写課題を用意して、描画実験をおこなった。前年度までに開発してきた液晶タブレットとアイトラッカーを用いた描線視線同時記録システムにより、描画過程の詳細な記録も可能になった。その結果、図地反転図形および倒立図形ではデッサン熟練者の方が非熟練者より形のずれが少なかったが、知覚錯視の課題では、熟練者でも錯視の影響によるずれが生じており、絵の巧さは概念的なバイアスの影響をいかに回避するかに依存することが示唆された。また熟練者は視線の動きが細かく、頻繁に見本と描線付近の間を行き来すること、一方で、非熟練者は視点が留まりがちであり、視線と描線の位置が一致しやすいことも観察された。 また本年度はオーストラリアに渡航し、アボリジニのロックアート(岩絵)の調査も実施した。アボリジニの絵は、ヒトが絵を描き始めた先史時代(少なくとも約1万年前)から直近の現代まで、ほぼ同じ画材、同じ方法で描画が受け継がれてきたとされる。先史時代の描画がどのように描かれていたのかを推察する上でも貴重なものであり、これまでの研究結果と合わせ、描くことの進化的な起源についての考察を進めた。
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