研究概要 |
聴覚末梢系の蝸牛内では低音域に情報処理の遅れ(蝸牛遅延)が生じるが,その知覚への影響はほとんど明らかになっていない.しかし,代表者による蝸牛遅延と知覚との関係を検証した研究により,低音域では時間的な情報の知覚精度が下がることや,さらには蝸牛遅延の生理反応への影響を利用して聴覚末梢系における可塑性を検証できる可能性が明らかになった.そこで本課題においては,蝸牛遅延を活用した心理実験,脳機能計測,聴覚末梢モデルを用いて,蝸牛から脳幹に至るまでの情報処理メカニズムを解明することとした. 日常の知覚場面において人間は蝸牛遅延による低音域の遅れを全く意識していないが,実際には蝸牛という聴覚情報処理過程の非常に初期的な段階で周波数に依存して音の伝播に時間差が生じている.この遅延は1000Hz以下の周波数で顕著に見られ,10msほどの時間差となる.例えば,100Hzと1600Hzの周波数成分が同時に蝸牛に入ってきた場合には,100Hzの周波数成分で共振する場所の方が蝸牛頂側にある分,1600Hzの周波数成分に対して処理に遅れが生じるのである.長年,人間はこのような周波数成分間の僅かな時間差(位相差)には鈍感であるとされ,重要視されてこなかったが,位相差の調整が合成音声や人工内耳の音質向上に貢献するという報告がされるなど,その鈍感さを否定するものも多くある.この事実に注目し,蝸牛遅延が周波数成分間の時間差知覚に影響を与えうると考え先行研究を行った結果,蝸牛遅延が顕著に生じる低音域では,周波数成分間の時間差に鈍感であるが,蝸牛遅延のほとんど生じない高音域では,たとえ僅かな周波数成分間の時間差であったとしても検出可能であることが見出された.また,蝸牛遅延特性を補正してなくすような刺激を用いた際に,より明確で急峻な聴性脳幹反応が示されることを利用し,演奏家と非演奏家の反応を比較したところ,演奏家の聴覚末梢系における情報処理の時間分解能の方がよく,聴覚末梢系に神経の可塑性が生じている可能性が示唆された.
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