細胞内は、蛋白質や核酸などの高分子に加え、様々な代謝物が高濃度で溶けこむ非常に混雑した溶液環境(分子クラウディングと呼ばれる)である。このような環境下の生体分子は、希薄水溶液中では観測されない様々な分子物性を示すことが注目されている。 本年度は主に低分子量クラウディング剤と蛋白質との相互作用を調査した。生体分子の構造安定性を大きく改変するクラウディング剤の典型例は、熱水や深海など極限環境に住む生物が細胞内に持つ有機低分子である。本研究計画では、深海生物が細胞内に多く蓄積する有機低分子:TMAO (trymethylamin N-oxide)を採用し、TMAO水溶液中における蛋白質の挙動を、分子動力学法を用いて調査した。得られた原子の位置情報を平均化し、蛋白質周囲のTMAOの3次元分布をAレベルの空間解像度で解析した。これらのデータから、選択的溶媒和〔水以外の共存する溶媒分子が、タンパク質表面などに水分子よりも過剰に結合(または排除)される現象〕が、どのような部位で発現するかを調査した。 さらに、TMAOのようなクラウディング剤は、蛋白質を高静水圧による圧力変性から防御している可能性が示唆されている。高静水圧を付加した分子動力学シミュレーションを実行し、TMAOが蛋白質の部分モル体積(溶質が系全体に及ぼす実質的な体積)とその圧力依存性に及ぼす影響を調査した。理論的側面からは、液体の統計力学に基づくKirkwood-Buff理論を生体分子用に改良し、蛋白質の部分モル体積の時間変化(ダイナミクス)および水和体積の3次元分布を溶媒分子の微視的配置情報のみから再構成する手法を開発した。これにより、従来、実験的には時間平均量としてのみ観測可能であった体積量について、その微視的空間分布やダイナミクスを知ることが可能になった。
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