ウクライナにおける都市建設に関しては、ロシア連邦との国境に近い第二の都市ハリコフ(ハルキウ)においてフォールドワークを実施し、その中心街区の再開発事業における首都性の創出に着目し、ソ連型都市建設システムの成果としての特質として、「周縁の中央化と、つくられた中央の再周縁化」という形での総括を試みた。つまり、ソビエト政府が内戦期におけるウクライナ民族主義勢力に対抗する拠点として首都を構えたのがハリコフであり、その中心として、かつての城塞地区と思われる部分に巨大なレーニン像を中心とする広場を建設し、広場の最奥部にガスプロムという国際様式のモニュメンタルな建築を配することで、きわめて科学的な新社会の中枢部の象徴をつくりあげようとしていた。近代建築の非伝統的な性格を活用することで、ソビエトの新規性と科学性を強調し、伝統的な正教的帝政的な旧社会との訣別を演出しようとしたのである。しかしながら、1934年にキエフがウクライナの首都に復帰すると、ハリコフのもつ政治的象徴性は急速にその意義を失うこととなった。さらに、1991年にソビエト連邦が崩壊し、ウクライナが社会主義体制から脱却することでその傾向はさらに強まった。そのためか、ガスプロムという中央広場は都市機能面での中心性も同時に喪失し、ハリコフは中心軸が非常に埋没した都市空間となっている。だが、ハリコフのレーニン広場とガスプロムは比較的に早い時期に政治的象徴としての機能を放棄したために、かえってよくソ連型政治都市空間のありかたをよく保存する存在となっている。つまり、記憶としてのソ連初期における政治的中心が内包された重要なモニュメントであるとの結論に達した。
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