本研究は18世紀末から19世紀前半を主たる考察対象と設定しているが、その時期における清朝の制銭供給政策を的確に位置づける前提として、〓銅(雲南銅)を主原料とする制銭鋳造体制がいかにして構築されたのかを正確に理解する必要がある。かかる体制が築かれたのは、18世紀の第二四半世紀である。この問題は従来より研究者の注意を集めていたが、近年、『雍正朝内閣六科史書・戸科』が刊行され、数多くの一次史料を新たに利用し政策過程を生々しく跡付けることが可能になった。その結果、〓銅中心の鋳銭体制は、従来の研究において言われていたように洋銅(日本銅)の減少に直面して不可避的に選択したというよりも、〓銅供給による利潤を省の公項財政の収益として組み込もうと目論む雲南省総督・巡撫らからの清朝中央に対する働きかけによって決定づけられたことが明らかとなった。これは、18世紀末以降に〓銅が減産し鋳銭規模の縮小が余儀なくされるなかにおいても、省財政の論理が規定的であったことを予想させるものである。以上の研究成果は、平成22年11月3日に京都大学において開催された東洋史研究会平成22年度大会において「洋銅から〓銅へ-清代〓銅制度の転換点をめぐって-」と題して講演し、現在、論文化に向けて詰めの作業を行っている。このほか、筑波大学中央図書館所蔵の『乾隆朝上諭档』『嘉慶道光両朝上諭档』「議覆档」「内閣漢文題本戸科貨幣類」「明清档案」「宮中档〓批奏摺財政類」『宮中档乾隆朝奏摺』などに収められた関係档案の収集・分析を進めた。
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