ロックとライプニッツの意識論を、意識されるもの(観念、表象)に着目して考察するのではなく、意識されないものに着目して分析した。ロックの場合、あらゆる心的作用は、感覚であれ思考であれ、また反省であれ、すべて意識が伴うことになっている。にもかかわらずロックは、魂は思考しない期間をもっという仕方で、我々の心のうちに意識から逃れ去る要素を導入している。眠っている間や気を失っている間などはその典型的な場面だし、酔っ払って通常の意識を失っている間もこの期間に入る。他方、ライプニッツは、すべての心的作用が意識されるわけではなく、また意識から逃れ去る心的状態があるという。「微小表象」と呼ばれる気づかれない表象が、常に我々の心的状態の大半を占めるということで、ライプニッツはフロイトの無意識概念にも通じるような着想を展開している。あらゆる思考は意識されるというロックと、意識されない思考があるというライプニッツとは、この主張だけに注目するかぎりにおいては真っ向から対立しているものの、魂には意識から逃れ去る思考や状態を認めなければならないという点では一致していると考えることができる。これは、あらゆる思考に意識が伴うと考えつつも、心的実体を思考するものと定義したデカルト哲学から引き出される帰結を回避するためであった。つまりデカルトに従う限り、心的実体は常に意識的に思考するため、深い睡眠や失神や無意識的状態を認めることができなくなってしまうのである。ロックとライプニッツは両者それぞれの仕方で、心的実体ないし心に無意識的状態を確保しようとしたのだといえる。
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