ロックとライプニッツは、それぞれの仕方でデカルト的な自我の問題を展開したことは昨年度の研究において確かめられた。今年度は特にライプニッツの自我論に焦点を当てた研究を優先的に行った。 ライプニッツは、『モナドロジー』で個体的実体であるモナドを三つの段階に区別したが、大まかにいってこの区別は無生物および植物、動物、人間の区別に対応している。意識や自我といったことが問題になるのは、第二の動物的なモナド、第三の人間としてのモナドにおいてである。デカルトとは異なってライプニッツは、動物にも意識を認めたが、それは動物においても判明な表象と混雑した表象の区別が認められること、また記憶が認められることによる。この意味での意識が、第二階ないし高次の知覚として認められるのかどうか、ライプニッツ研究においてはたいへん議論されている。今年度の研究においては、この点で結論を出すにはいたらず、むしろ類似の問題を自我を備えた第三のモナド段階において問うことを試みた。すなわち第三の、人間としてのモナドがそれ以前の、動物としてのモナドから区別されるのは理性を備え、それゆえに自我を備えているからだが、この自我の意識が第二階ないし高次の知覚として認められるべきなのかどうか、と問うのである。 自己意識が、自己という存在者を対象とした知覚ではないのではないかという疑念はヒューム以来広く共有されているわけだが、そうでないとしたら自己意識をどう捉えればよいのかという問題に答えが出ているわけでもない。ライプニッツの『モナドロジー』におけるモナドの三段階説に基づくことでこの問題にアプローチできたことが、今年度の成果である。微小表象という意識から逃れ去るような表象は、第三のモナドの意識状態にも不可避である。しかし本研究は、それだけでなく、意識されないものがモナドのうちにあることが、自己意識の条件だとさえいえることを明らかにすることができたように思う。
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