本研究の目的は、ヘルダーリンの詩作の理論「音調の交替」を現代の情動と感情の科学を用いて解釈し、より一般的な観点から再構成することにある。ヘルダーリンは叙事的な詩ならびに叙情的な詩の根拠となるべき詩的主体の内面を、それぞれ「努力」ならびに「感情」として規定した。平成22年度には、この「努力」と「感情」との区別が、脳神経科学者アントニオ・ダマシオによる情動と感情との区別に対応しうることを仮定的に提示した。本研究の成功の可否はこの仮定の証明をどれだけ説得的に行えるかにかかっている。しかし、そもそもヘルダーリンが「努力」をいかなる内実をもつ概念として用いているのかが判然としない。そこで平成23年度は文学研究的アプローチによるこの概念の解明を主眼にすえて研究を進めた。その方法として、ヘルダーリン詩学が前提とする思想を比較参照した。 1795年頃、ヘルダーリンはフィヒテの知識学に基づき、「努力」を自己意識の前提として理解する。さらに彼はその5年後、「努力」を自らの詩学の基礎概念として用いる際に、以前には存在しなかった観点を導入する。「努力」はこの新たな観点に基づいて練り直され、スピノザのいう「コナトゥス」の機能を含むものへと改変されるのである。つまりヘルダーリンは「努力」を、自らの存在に固執しようと努める自己保存の能力としてとらえ、この力に対する抵抗を通じて意識が生じると考えるのである。 以上が本年度において実質的な成果として得られた知見である。これによってヘルダーリンの「努力」がダマシオのいう情動と同様の機能を有することが明らかになった。ダマシオは情動を純粋に生物的な自己保存の能力として発現した「コナトゥス」として把握する。彼によれば情動とは刺激に対して生じる身体状態の一連の変化なのであり、一切の意識は情動を土台として生じると考えるのである。
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