哲学の歴史が存在の呪縛のもとにあり、存在の究極を問うためには、むしろ「無か、無ではないのか」という問いから出発しなければならない、という本研究の主張は、国内でも反響を呼び、ハイデガー・フォーラムにおけるピアセレクションの結果、その第六回大会において発表の機会を得ることになった。その際の質疑応答において、若干名の参加者から「無は思考できない」という反論が寄せられたが、逆に分析哲学系の研究者などに私の主張に賛同する人も少なくなく、分析哲学的なスタイルを意識した本研究がすでに研究者の間で一定の評価を得ていることが明らかとなった。さらに本研究は、存在の究極の含意を問うためには、存在ではなくむしろ無をこそ問題にしなくてはならないと主張しているのであるが、それは従来の存在論にはまったくなかった視点であり、その革新性は、国内のみならずドイツ語圏においても広く認められつつある。その結果、予想もしなかったことだが、本研究の成果を評価したドイツ語圏日本学研究者会議の主催者から、本年度チューリッヒで開催される「第一五回ドイツ語圏日本学研究者会議(15.Deutschsprachiger Japanologentag)」の開幕記念講演(Festvortrag)を依頼されるに至った。この講演はドイツ語で行われるが、講演題目は「日本語で哲学すること(Zum Philosophieren in der japanischen Sprache)」である。それは、本研究が問題視している「欧米語におけるbe動詞の例外的優位」を、それ以外の様々な言語、特に日本語との対比において論じようとするものである。このように本研究の主張は、哲学の歴史全体に対する根本的な異議申し立てという意味を持つのであるが、こうした革新的な発想は、国内のみならずドイツ語圏でも大きな反響を呼びつつある。
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