研究概要 |
本研究は,母親と子どものあたたかな関係それ自体が近代という時代の中で形成されてくる過程を明らかにすることを目指したものである。特に,フランスで近代初頭に至るまで続いてきた乳母による育児や子捨ての伝統は,今日の教育学のみならず子どもを対象とする人間諸科学の諸理論が前提としている母と子の濃密な関係をそもそも不可能なものとしていた事実として,看過されるべきではない。こうした,母と子の切断とも言えるような状況は19-20世紀転換期に徐々に変化していったと考えられるが,この変化を可能にしたものをこれまでの思想史研究は「思想の力」に置き,過剰な信頼をかけてきたといえる。例えばルソーの思想はその典型とされてきた。しかしながら,そうした母と子の切断という状況を変化させたのは,「思想の力」のみにあるのではもちろん無く,その時代の諸科学や社会的諸状況が織りなす複合的なネットワークによるものだったことが,本研究を通して明らかになったと言える。具体的には,研究の計画段階において立てた仮説の通り,パストゥールによる細菌の発見と滅菌法の発明は,科学的知が子どもの生だけでなく教育的な関係性そのものを支えたという点において,きわめて重要な出来事だった。加えて,本研究の過程では,近代国家の教育施策である保育所の設立が働く女性たちの子育てを可能にしていくことで,地方の乳母への子どもの預け渡しや子捨てを防止するとともに,同じく国家的な課題である公衆衛生において「清潔」概念が学校や保育所という場を通して人々のもとに浸透していったことが明らかになった。 以上の研究から,私たちが自明のものとしている母と子の濃密な関係が,科学的な知や社会的状況や人々の日常的な実践を通して形成されたものであることを示すことができたと言える。
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