研究課題/領域番号 |
22K06442
|
研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
國友 博文 東京大学, 大学院理学系研究科(理学部), 准教授 (20302812)
|
研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2025-03-31
|
キーワード | 記憶と学習 / 線虫 / 走化性 / 神経ペプチド |
研究実績の概要 |
私たちは記憶や学習が環境や体調の影響を受けることを経験的に知っているが、その詳細なしくみは未解明な点が多い。記憶の形成や想起は体内外の環境によっていかに調節されるのか。また環境からの刺激に対する応答行動が記憶に基づいて調節されるとき、神経系に生じたいかなる生理的な変化がどのように行動に反映されるか。本研究は、我々がこれまでに明らかにしてきた学習の機構に関する知見をもとにストレスが学習に影響する仕組みを分子レベルで解明することにより、上記の問いに答えることを目指している。 本研究では、おもに、神経系の機能解析に適した線虫C. エレガンスの走化性の実験系を用いて研究を進める。線虫は餌を得ていた塩濃度を好み、飢餓を経験した塩濃度を避ける学習行動を示す(塩濃度走性)。この学習では、塩濃度を記憶する味覚神経から後シナプス介在神経へのシナプス伝達の可塑性が行動を変える原因の一つである(Sato et al., 2022, Hiroki et al., 2023)。また、飢餓による行動の変化には、味覚神経ではたらくインスリンシグナル伝達経路が必須な役割を担う(Nagashima et al., 2019, Tomioka et al., 2022)。今回我々は、神経ペプチドが餌の情報としてはたらくことを示唆する結果を得た。神経ペプチド遺伝子の変異体約40株について塩走性の表現型を観察した結果、FLP-2と呼ばれる神経ペプチドが過剰に生成されると、飢餓に伴う学習が顕著に弱まることを見出した。また、この表現型に関わる受容体を特定した。flp-2遺伝子を欠損しても塩濃度走性は影響を受けなかったことから、神経ペプチドの発現が適切に調節されることが重要なことが示唆された。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
神経ペプチドの翻訳後修飾に必要なegl-3やegl-21の変異体が塩濃度走性に欠損を示すことから、これらの基質である神経ペプチドの関与が示唆されていた(Nagashima et al., 2019)。これを受けて神経ペプチド遺伝子の変異体を用いて塩走性の表現型を観察し、FLP-2を過剰発現すると飢餓後の塩走性が著しく損なわれることを見出した。FLP-2を活性化し餌の認識に関わることが示唆されている別の神経ペプチドPDF-1も同様の効果を示し、既知の受容体が塩走性の表現型にも関わることが明らかになった。二重変異体を用いた遺伝学的解析の結果、塩走性においては、FLP-2とPDF-1は独立して塩濃度走性に寄与することが示された。変異体の表現型を調べる過程は道半ばであるが、既に多くのペプチドが塩濃度走性に影響することを示す結果が得られている。但し、FLP-2をはじめそれらの多くはペプチド遺伝子を過剰発現した結果、異常が観察されている。flp-2やpdf-1の機能欠損変異体は塩走性に欠損を示さないことから、これらの生理的な機能を明らかにすることが今後の課題である。 交付申請書に記載した研究実施計画のうち、塩の受容機構に関する研究では、ASEL感覚神経の塩応答性について意外な発見があった。従来、ASEL神経は環境の塩濃度が上昇すると興奮(細胞内カルシウムイオン濃度が上昇)するとされていたが、塩濃度が低下した場合にも活動する場合があることがわかった。このほか、今年度は塩の情報処理を担うAIY介在神経の塩応答の調節機構を明らかにした(Mabardi et al., 2023)。 研究協力者であった大学院生の学位取得と離籍に伴い、当初に予定していた研究計画の一部や、新たな試みは開始できなかった。研究協力者で中国からの留学生である大学院生の入国が遅れる等、COVID19の影響を受けた。
|
今後の研究の推進方策 |
神経ペプチドFLP-2およびPDF-1が塩走性において果たす役割を明らかにする。FLP-2を過剰発現した線虫株は、飢餓条件後の塩走性に欠損を示す。この表現型は受容体として知られているFRPR-18欠損によって抑圧される。一方、flp-2またはfrpr-18の変異体は塩走性に顕著な欠損を示さない。以上のことから、FLP-2の過剰発現による塩走性の欠損は、生理的な制御を逸脱したFLP-2がFRPR-18受容体を介して飢餓後の塩走性を攪乱することが原因であると推測される。餌の認識に関与しFLP-2の分泌を促進することが示唆されているPDF-1についても、FLP-2と同様、変異体は顕著な表現型を示さない。FLP-2およびPDF-1がもつ生理的な役割について知る手がかりを得るため、受容体の作用細胞を同定し、神経回路の塩応答がペプチドによっていかに調節されるか調べる。飢餓条件による行動の調節には、インスリンシグナル伝達経路が関与している(Ohno et al., 2014, Nagashima et al., 2019, Tomioka et al., 2022)。ペプチドの過剰発現はこれを抑制しているかもしれない。両者の遺伝学的な関係を調べる。FLP-2とPDF-1は、個体の活動レベル(静止と覚醒)の調節に関わることが知られている(Chen et al., 2016)。また最近、介在神経から分泌されるFLP-2が飢餓やストレスによる耐性幼虫形成の制御に関わることが報告された(Chai et al., 2022)。これらの研究は、FLP-2やPDF-1が他のシグナルと並行して、餌のシグナルとしてはたらく考えと矛盾しない。この可能性を検討する。セロトニンやドパミン、MAPKなどが餌のシグナル伝達を担うことが知られている。これらと神経ペプチドの関係を調べる。
|
次年度使用額が生じた理由 |
多くの実験を既設の設備で賄うことができたため、消耗部品の交換を含む機器への支出が予想外に少なかった。また消耗品をまとめて購入することにより、おもにプラスチック器具の購入費用を抑制できた。さらに、学会にオンラインで参加したため研究成果発表のための費用が少額で済んだ。これらの理由により次年度使用額が生じた。老朽化した設備の更新を前倒しするなど支出計画を再考し、次年度以降に支出する予定である。
|