| 研究課題/領域番号 |
22K12647
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| 研究機関 | 宮城学院女子大学 |
研究代表者 |
櫻井 美幸 宮城学院女子大学, 学芸学部, 准教授 (60710902)
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| 研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2026-03-31
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| キーワード | ジェンダー史 / 女子教育史 / 女性の宗教運動 / 宗教改革史 |
| 研究実績の概要 |
現在までの史料収集により今年度は下記の研究成果を公表することができた(『人間社会科学論叢』35号、2025年3月、39ー54頁)。 メアリー=ウォード亡き後,英国女子修道会はバイエルンとその近郊に次々と女学校を開いていく 。ミュンヘンで世俗団体になった後、最初に女学校を開学し、団体が司教認証を得て宗教団体としての地位を確立した端緒はアウクスブルクにおいてであった。しかし学校開学から司教認証と市民権を得を獲得するまで30年かかっている。アウクスブルクは二宗派併存体制となった数少ない都市である。市政を担う市参事会員も役人はすべてカトリックと宗教改革派同数であり、双方が牽制し合いながら市政の重要事項が決められていた。外国人が主要な成員を占めていた英国女子修道会の伸張に対して市政を担う宗教改革派の多くが良く思っていなかっただろうことは想像に難くない。では、英国女子修道会はどのようにしてアウクスブルクで地歩を固めていったのか。 二宗派併存体制の都市という状況の中で、司教認証を得て学校団体として活動していくには宗教改革派からの攻撃や世俗のカトリック教師からの不満など様々な困難が伴った。しかし両派が牽制し合っていたからこそ、有利な点があった。もしカトリック都市であったなら、教皇により異端の疑いをかけられ解散命令が出された団体を受け入れてくれることは難しかったであろう。もう一つ、英国女子修道会に有利に働いたのは、近世以降も私塾に頼るという初等学校制度の貧困さである。外部勢力の介入を招かないように、市政府内で一方の宗派が力を持ちすぎないよう微妙な均衡を保ちながら市政の統率者たちは平和の維持を模索していた。その中で自身の娘を安心して預けられる良質な教育施設がないことを危惧する都市貴族・富裕市民にとって、英国女子修道会が提供する質の高いカトリック女子教育は歓迎すべきものであったといえる。
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| 現在までの達成度 |
現在までの達成度
3: やや遅れている
理由
コロナにより渡航がなかなかできず史料収集が遅れたため、当初予定より1年程進捗が遅れている。ただ、今年の3月にドイツで史料収集をおこなったため、史料収集の作業はほぼ完了している。
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| 今後の研究の推進方策 |
今までは、イエズズ会女団体の代表として、英国女子修道会が能動的な宗教的活動としての女子教育事業を拡大させていく過程を明らかにしてきた。最終年度は、英国女子修道会と異なり、正式な女子修道会としての認可を目指さず、女子教育に専心した団体として、帝国都市ケルンのウルスラ共同体(Ursulagesellschaft)の教育活動を取り上げたいと思っている。 ケルンのウルスラ共同体は、既存の教育女子修道会であるウルスラ会とは全く関係はない。ケルンの富裕な未亡人であったイダ=シュナーベルと9人の仲間たちが1606年に「兄弟団」としてケルンに設立した共同体である。最初から子ども(少女)たちにカテキズム教育をするための団体として設立された。この点が正式な修道会としての認証を得るのを目的としていた英国女子修道会とは大きく異なる。この団体は一時は200人以上の成員を抱える程になった。ウルスラ共同体が17世紀にケルン市の女学校制度の発展に寄与した功績は大きく、ConradやRutzといった研究者が女子教育史と女性の宗教運動の関わりにおいても取り上げてきた。 この研究者たち以外の研究論文や、英国女子修道会と関係する史料などはもう入手しているので、これらを用いて、なぜこの団体がイエズス会との強い関連が指摘されているにも関わらず、なぜ身分的には世俗のまま女子教育活動を行ったのか、この団体の活動は市政府、市民にどのように見られていたのか、他の教育女子修道会やイエズズ会女団体との関わりはなかったのか、などについて考察を行っていきたい。関連の論文や書籍以外に、ケルン市やローマ教皇庁のケルン特使による史料も活用しながら、分析を進め、最終的に論文として発表する。
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