電子の207倍の質量をもつ素粒子「ミュオン」は、水素標的中に入射すると、水素原子の中の電子と入れ替わり、高い励起状態のミュオン水素原子を形成する。ミュオン水素原子は脱励起してやがて基底状態に至るが、脱励起の過程で『電子を纏ったミュオン分子共鳴状態』を形成する可能性が指摘されている。これは、大きな内部エネルギーを持ったミュオン分子を擬似核として内包する新しい原子系として興味深く、その有無は、ミュオン原子カスケード過程の理解を書き換える可能性がある。本研究では、これまで検討されてこなかった「二原子分子描像」という切り口で、ミュオン分子と電子の四粒子系を精密計算し、衝突しきい値近傍に存在するこの量子系のエネルギー・寿命、安定性を明らかにすることを目的とした。 研究期間全体を通じて、二原子分子描像を取り込んだ大規模計算のためのコード開発を進めた。理論の検証のため、固体重水素標的を用いた精密X線分光実験と連携し、ミュオン重水素分子の生成・崩壊過程を計算し、スペクトルを予言した。電子を纏ったミュオン重水素分子の共鳴状態は、オージェ電子放出に対して不安定であるが、遷移後の状態を特定する必要があった。ミュオン重水素分子の共鳴状態波動関数を複素ガウス基底関数により精密に記述し、量子状態間の双極子モーメントの行列要素を計算して求めた。従来の計算では核間距離の期待値の変化から推算されていたが、三粒子系の波動関数を用いることで近似の精度を向上した。同様の手法により、電子を纏った状態の生成断面積を求めることにも成功し、反応速度論により、二原子分子描像が発現しうる「空間的に大きな擬似核」が生成されやすいことを示した。さらに、二原子分子描像を直接含むミュオン重水素原子と重水素原子の衝突計算を実装し、ベンチマークとしてオージェ電子放出によるミュオン重水素分子束縛状態の生成速度を求めることができた。
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