研究課題/領域番号 |
22K18467
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研究機関 | 静岡大学 |
研究代表者 |
森本 隆子 静岡大学, 人文社会科学部, 准教授 (50220083)
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研究期間 (年度) |
2022-06-30 – 2024-03-31
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キーワード | サブライム / ピクチャレスク / 日本風景論 / ナショナリズム / 島崎藤村 / 柳田国男 / 田山花袋 / 夏目漱石 |
研究実績の概要 |
本研究は日本近代の黎明期―「明治」におけるナショナリズムの確立をめぐって、国家に対する反動として、国家と対峙しながら相補する役割を果たした明治期ロマン主義を<感性のナショナリズム>と銘打って、文学や絵画を素材に、その構造と系譜を解明することを企図したものである。ナショナリズム研究にあって分断されがちな「政治」と「文学」の2つの領域を架橋することの意義は大きい。 既に拙著、および前回交付を受けた「挑戦的研究(萌芽)」の成果として、『日本風景論』(志賀重昂、1894年)が「鉄宕」(「sublime」の訳語)をキーコンセプトに<崇高な吾が郷土>を立ち上げることに寄与した文学的著述であることを提示した。今回はそれを後継する発展的研究の視座として、まず田山花袋を中心とする一大紀行文ブーム、およびその周縁に位置する大下藤次郎ら<旅する水彩画家>たちの存在に着目し、全国津々浦々の風景美の発見が表象としての<吾が郷土>を立ち上げてゆく様相を追跡した。また一方で、同じく「sublime―picturesque」系の美意識に魅了されながら、それを相対化する批評意識を発揮したと考えられる夏目漱石の言説、さらには両者を媒介する触媒としてラスキン、ひいてはワーズワースの影響を検討した。 最大の成果は、花袋を要とする交友圏に及ぼした、柳田国男の影響力の大きさである。日本各地それぞれに固有の風光、なりわいを文や画に留めようとする欲求は、民俗学への萌芽を内包した初期の柳田に触発されたものであり、その頂点に位置することで分岐点をも意味することになったのが、信州の山間を生きる被差別部落民に取材した島崎藤村の名作『破戒』(1906年)である。もとより柳田の「山人」が「常民」へ糾合されてゆくのは通説の通りであり、ここに反ナショナリズムのナショナリズムとの葛藤―反動と相補の微妙な関係性の端緒を指摘することができる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
今年度の第一目標であった、田山花袋を中心とする明治期の紀行文ブームについては、未だ調査の途上にある。しかし、一方で、花袋を起点に横に拡がるネットワーク―花袋から柳田国男と国木田独歩、後には島崎藤村へ至る交遊関係、ひいては「柳田―藤村」間に見られる深い相互影響関係について、その様相を明らかにすることが出来たのは、予想外の収穫だった。これらの交友圏は、一種の友愛関係としては早くから論及されてきたものの、詩歌の世界を離れ、民俗学への傾斜を深めつつあった1900年代の柳田が上記文学者たちに与えた内的インパクトについては未だ関心と評価は低い。花袋の紀行文に顕在的なローカルの探求、独歩における「小民」の発見、そして藤村が一回限り、取材した被差別部落民への強い感情移入(『破戒』)の原点として、柳田の「山人」論―今しも<近代>が忘却の淵へ追い払おうとしている<異人>に対する強い関心を位置づけることが出来た。花袋が『破戒』を評して言う「峻峰高嶺」に囲まれた山国の「珍しき民」の「物語」とは、まさしく当時の柳田が考究していた「山人」――アイヌ、蝦夷、非差別部落民ら異族・漂泊の民たちとの共振の上に招来されたものである。近代および近代国家が周縁化し、捨象した<異人>に民族のルーツを遡ろうとする柳田民俗学のナショナリズムとの微妙な関係は、そのまま藤村、独歩、花袋へ投射されていると評しても過言ではない。『破戒』に見られる柳田的<異族―山人>からの深い影響と分岐、ナショナリズムとの関係については、島崎藤村学会・全国大会のシンポジウム(9月23日)で報告を予定している。 なお、副産物として、上記の交友圏を束ねるもう1つの視点として、明治期におけるワーズワース受容が浮上してきた。夏目漱石の詩論も合せ、従来、論じられてきた文学的影響をはるかに超えた、反・近代の批評的指針として享受されていた可能性を想定している。
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今後の研究の推進方策 |
① 初期・柳田民俗学の「山人」論の国木田独歩・島崎藤村・田山花袋への影響、およびナショナリズムとの関係 柳田の「山人」論に見られる<近代>への鋭い批評意識は、藤村『破戒』に描かれた被差別部落民、独歩が発見した「小民」、花袋における「地方」の踏査とどのような差異を有するのか。その交叉と分岐の諸相を検証し、ナショナリズムとの関係を解明する。近代国家システムから排除されてゆく名もなき民、首府・東京に対する地方は、<周縁>として<中心>を相対化し得るのか、あるいは緊張を孕んだ両者の往還関係そのものが「国民」への糾合、「国土」創出の契機として機能するのか。この後、柳田民俗学は稲作農耕民に中心化した「常民」論へと展開し、藤村、花袋が相次いで発表した『破戒』(1906)『蒲団』(1907)は<告白>に主眼を置く「自然主義」文学の隆盛を招来する。社会に対する批評性がどのように変容してゆくかを検証する。 ② ワーズワース、ラスキンにおける<近代>批判の検証と日本における受容の検討 明治時代に愛好されたゴールドスミス『荒村行』(The Deserted Village、1770)と並べることで、ワーズワースにおける自然賛美が産業革命と工業化に湧く近代社会への鋭い批判と表裏一体的に受容されていたことを論証し、郷土愛とナショナリズムの関係を検証する。同様に、ラスキンの美術批評に見られる中世回帰と近代経済に対する批評意識から、近代批評の構造を検証する。 ③ 小島烏水の山岳紀行文における「sublime」から「picturesque」への内的深まりとナショナリズムに対する両義性 志賀重昂『日本風景論』の直接的な継承者である小島烏水の山岳紀行から窺える「ピクチャレスク」的な内観への深まりと郷土愛の深化に、ナショナリズムに対する両義性を検証し、柳田、藤村、花袋、ひいて漱石ら相互間の差異を論じる補助線としたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
当初より、2つの年度に分割されたものである。
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備考 |
「令和5年度藤村文学講座―藤村と同時代の文学者たち」(小諸市立藤村記念館主宰)の第8回(11月18日)を担当し、北村透谷や同時代キリスト教評論との差異を機軸に、近代を生きながら近代への批評性を有した藤村文学について講演した。ナショナリズムとの関連を課題とする今回の科研テーマに連なるものである。
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