本年度の研究では、科学研究に従事することそのものの中に、無知を生じさせるメカニズムがあることを示した。 先行研究においては、ジェローム・ラベッツやポール・ホイニンゲン=ヒューネ、トルステン・ヴィルホルトなどが、トマス・クーンのパラダイム論に基づき、科学研究において無知が生じることを論じた。パラダイムは様々な構成要素からなるが、先行研究によって指摘された無知は、主に理論的な制約により生じるものである。本研究では、パラダイムのその他の構成要素も無知を生じさせる要因になることを、主に分子生物学の歴史の事例から示した。分子生物学において、遺伝子発現に関する理論の骨組みは、フランシス・クリックを中心とした、情報概念に強い関心のある生物学者らによって構築された。彼らは「RNAタイクラブ」を結成し、共通のパラダイムの下でアイデアを交換していた。彼らは遺伝暗号の解読にも情熱を注いでいたが、それを達成したのは、RNAタイクラブ的なパラダイムの外にいた科学者である、マーシャル・ニーレンバーグらだった。彼らは単純な組成の人工RNA鎖を使い、試験管内でタンパク質合成をさせるという実験的方法で暗号を解いたが、RNAタイクラブ的パラダイムを共有する科学者は、そのような実験を行っても何も生じないと考えていた。これは、彼らが無知に陥っていたことを意味する。ここで、遺伝子発現についての理論は構築途中であったため、RNAタイクラブ的パラダイムの支持者たちが陥っていた無知は、理論的制約によるものではない。それはむしろ、研究手法や探求の歴史に由来する、思考の制約であったと考えられる。 社会実験においては、社会に悪影響を与えうる無知をいかに克服するかがとりわけ重要となる。よって、パラダイムを構成する理論以外の要素も無知を生じさせることを指摘した本研究は、社会実験における無知をうまく扱う方法を探る上でも非常に重要である。
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