2022年度実績報告書執筆時の段階ですでに2つの応用的領域へと枝葉を伸ばしていた本研究は、同年度報告書「今後の研究の推進方策」に則り、これら2つの領域から得られた成果を1つの言語観として統合せんとする方向へと舵を切った。 (1)言語のポリフォニックな側面を理論的に基礎づけた。報告者は、しばしば私たちの心の状態として理解される「意図」が、事実として共同体における「合意」に基づいた共同的作成を経たのち各個人に帰属されるものであるということを指摘した。この指摘が正しければ、意図は「個人的な心の状態」では最早あり得ず、その瞬間の当の共同体において有効な規約として理解されるべきである。 (2)上の見解に基づき、現代ロシア語の非標準的な格付与に関する学説を提出した。ロシア語の否定文においては「自動詞の主語」「他動詞の直接目的語」が生格に置かれることがある。この現象は「否定生格」と呼ばれ、この特殊な格は「話し手が否定生格に置かれた名詞句の表示対象の不在を信じている」という言外の意味を伝達する。ここで仮に、否定生格名詞句の表示対象の不在を信じるのが通説通りに話し手であるとすれば、間接引用節に登場する否定生格名詞句の表示対象の不在を信じるのもまた、オリジナルの発言の主ではなく引用者(話し手)であるという予測が立つ。しかし実際には、間接話法の補文節に登場する否定生格名詞句の表示対象の不在を信じている主体として伝達されるのは、引用元の発言の主である。この言語事実は、通説において対象の不在を信じている「話し手」が実は「否定生格が登場する節の内容に責任を負う主体」として精緻化されるべきであるということを意味する。この結論と(1)の観点とを合わせることで、本研究はこれまで形態統語論上の問題とされてきた格付与の文法が、実は補文節の内容に責任を負う主体の態度に呼応して駆動しているということを示唆するに至った。
|