研究課題/領域番号 |
21J23610
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配分区分 | 補助金 |
研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
温 秋穎 京都大学, 教育学研究科, 特別研究員(DC1)
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研究期間 (年度) |
2021-04-28 – 2024-03-31
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キーワード | 中国語受容 / 日中文化交流 / メディア史 / 戦後史 / 日中関係 |
研究実績の概要 |
2022年度は、近現代の日本において中国語を通して中国のことがいかに認識されてきたのかという問題意識をめぐって、いままでの研究をまとめる作業を進めた。今年度の研究報告と論文投稿は主に以下の二つである。 ①「戦前日本の中国語学習誌:中国語教育、中国語界を読み解く基礎資料として」京都大学人文科学研究所付属現代中国センター「20世紀中国史の資料的復元」共同研究班、2022年5月20日。この報告では、1930年代に民間で多く出版された紙媒体の中国語教材と学習雑誌について、雑誌の自己認識・人的ネットワーク・雑誌に現れた研究志向という角度から考察した。1930年代、中国語学の再編を目指し、文化誌・翻訳誌・研究誌という多重的な自己認識をもつ一連の学習雑誌が誕生した。誌面からは、時局下での中国語ブームとの齟齬が生じ、中国語の受け止めかたが複雑な様相を呈していたことが読み取れる。同時代中国の国語運動や文字改革、中国文化界の状況を日本に伝達する初歩的な「翻訳」の媒体として機能していた。 ②「NHKラジオ・テレビ「中国語講座」の戦後史―日中国交正常化前の語学学習と中国認識」『メディア史研究』第53号、2023年2月。本稿は、1952年から1972年頃にかけてのNHK「中国語講座」シリーズを研究対象として、言語教育の素材と教学の方針を定めた講師、番組の在り方に関心に寄せた学習者がそれぞれ、いかなる思惑を持って中国語に接近していたかを考察した。1950年代において中国語の教育者と学習者との関係は倉石武四郎のリーダーシップのもとで緊密であり、この関係が草創期のラジオ講座の聴取環境を支えた。1960年代、中国語教育界が求める「文化語学」と同時期のNHKが提起したアジアの「教養語学」とが合流し、さらに大学生や若い人たちから共感を得て交流志向を有する民衆レベルの「一般教養」としての中国語の形が模索された。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
2022年度は、博士論文の執筆に向け、近現代の日本において中国語を通して中国のことがいかに認識されてきたのかという問題意識をめぐって、いままでの研究をまとめる作業を進めた。博士論文のテーマを、「中国語受容とメディアに関する文化史的考察―声の「教養語」をもとめた近代日本」と確定した。
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今後の研究の推進方策 |
「中国語受容とメディアに関する文化史的考察―声の「教養語」をもとめた近代日本」をテーマとする博士論文では、1930年代から1960年代にかけて、ラジオ・出版などのメディアを介した日本国内の中国語学習の場において、中国語という外国語を声の「教養語」として追求した教育者・学習者の言動を考察し、これらの言動と思考の連鎖が当時の日中関係と国内の学問体系にもたらした意味を解明したい。それと関連して、以下のような問題点を熟考する必要がある。 ①声の中国語は「教養」であるか。本研究ではまず、戦前の帝国大学、旧制高等学校のエリート文化(=他の外国語と比較)と、近代日本の学問体系における中国語が置かれた位置(≒漢文の訓読と比較)から、中国語が教養語であるかどうかという問題を考える。さらに、戦前のエリート型教育から戦後のアメリカ型の教養教育へと大きな転換していたなかで、戦前と戦後の中国語教育の位置づけを詳しく論じらなければならい。 ②受け手にとって変種の「教養」としての中国語は何を意味したのか。1930年代の中国語ブームのなか、とくにコンテンツの提供者として学習メディアを利用した中国語教師や文部省にとって、中国語とは民衆が中国を再認識し、戦争の意義を理解してもらうための時局下で必須の知識であった。送り手にとって、変種の「教養」としての中国語を取り上げる正当性があったが、中国語はどの程度中国を再認識しようとした人々の心を惹きつけたのか、それを学習する一般民衆はどれぐらいの範囲に及んだのかといった受け手の問題については、さらなる堅実な論証が必要である。
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