「フランク人」と称されるエトノス集団についての歴史的探索は、ドイツの中世史家H・ゲラーン=ヘックが2005年に発表した論文により、現時点での最良の仮説が提示されたと考えられる。27年度の作業は、これを前提にして北海沿岸地帯に誕生した原「フランク人」を取り巻く自然・歴史環境を青銅器時代にまで遡って検討する作業を行った。 先史考古学者K・クリスチアンセンによれば、青銅器から鉄器時代にかけての時期に、ケルトやゲルマンなどの異なる地域的伝統により特徴付けられた北部、中部、地中海ヨーロッパを包摂する一つの構造的ハイアラーキーが誕生した。この構造が、後のローマ帝国の膨張を潜在的に規定したとされる。先史ヨーロッパ空間のハイアラーキー構造の最も周縁に位置していたのが、ゲルマン部族と称される言語集団である。彼らが先史ヨーロッパ経済システムの中心に位置していたミケーネ地方に輸出していた主要な産品が、古典古代世界において「宝石」として珍重されていた琥珀であった。古代ギリシアの植民都市マルセイユ出身の航海者ピュテアスは、前325年にジブラルタルを抜けて北海、バルト海を航行し、ブリティン島の各地やスカンジナヴィアを旅したが、後のローマの博物誌家大プリニウスが伝えるところでは、北海沿岸の島々の人々は近隣のチュートン人(ゲルマン人)に、海岸で採集された琥珀を売るのを生業にしていたという。ピュテアスの著作それ自体は今日まで伝来していないが、西暦1世紀の大プリニウスの時代までは、その著作が伝来していたのである。 初期ゲルマン人の部族形成研究の権威であるR・ヴェンスクスによれば、ここでチュートン人と称されているのは現在のユラン半島に住むゲルマン部族であり、彼らはエルベ川をルートとする「琥珀の道」を介して、琥珀を地中海地方に輸出した。 後の「フランク人」は、このようなゲルマン人集団の一部を構成していたのである。
|