分子間のエネルギー伝達は、化学の基礎的過程として重要である。その機構を解明するためには、エネルギー供与体と受容体の相対位置を規定してエネルギー伝達量や速度を観測する。しかし液相においては両者の相対位置を制御することは難しい。そこで我々はヘムタンパク質を利用して、エネルギー供与体と受容体の相互位置を制御した系をつくり、エネルギー伝達過程に関する研究を行った。ヘムを光励起すると無輻射遷移によって余剰エネルギーが生じ、その後余剰エネルギーは周囲のタンパク質部分へ散逸する。その散逸過程は、紫外光を用いた芳香族アミノ酸残基のアンチストークス共鳴ラマンスペクトルから調べることができる。アンチストークスラマン散乱光は振動励起状態からのみ発生し、その強度は分子が持つ余剰エネルギーの大きさを反映するからである。したがって、アミノ酸残基のアンチストークスラマンバンド強度の時間変化から、ヘムから特定の位置にある残基に伝わるエネルギー量や速度を求めることができる。本研究では、チトクロムb562におけるエネルギー伝達を調べた。チトクロムb562は、ヘムが4 本のαヘリックスに囲まれた単純な立体構造をもつ。この構造を利用し、αヘリックスの1 ターン単位でトリプトファン残基の位置をずらした三種類の変異体を作製し、エネルギー伝達の量や速度の距離依存性を系統的に調べた。その結果、ヘムからの距離が大きくなるにつれて、トリプトファン酸残基が受け取る余剰エネルギーが小さくなること、エネルギーの伝達時間が長くなることを明らかにした。また、観測されたアンチストークスラマンバンド強度の時間変化は、熱拡散モデルでほぼ定量的に再現できることを示した。
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