研究課題/領域番号 |
23500700
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研究機関 | 工学院大学 |
研究代表者 |
数馬 広二 工学院大学, 工学部, 教授 (30204407)
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研究期間 (年度) |
2011-04-28 – 2014-03-31
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キーワード | 馬庭念流 / 樋口将定 / 相馬弾正 / 樋口定暠 / 松平定信 / 矢留術 / 神田明神 / 浅草寺 |
研究概要 |
本研究は、日本の近代へ継承された身体観、身体教育観の変遷を実証するために、都市ではなく関東の「村」に生きた人々を対象として、江戸時代初期から幕末に至るまでの剣術流派の分布と内容を調査する研究である。平成23年度は、16世紀後半に上野国で興された馬庭念流18世紀前半の江戸進出に焦点をあて研究を進めた。江戸へ進出した馬庭念流は、明治に至るまで江戸で、13世樋口将定の頃に赤坂(東京都港区)、14世樋口定暠は京橋(東京都中央区)、定暠の弟・樋口定張が神田お玉が池(東京都千代田区)および小石川(東京都文京区)、18世樋口定伊が神田明神下(東京都千代田区)にそれぞれ道場を開いた。注目される活動の一つに、元文5年(1740年:樋口将定)に外桜田(東京都千代田区霞が関)の相馬弾正邸での「上覧」があげられる。相馬家は念流の始祖相馬四郎左衛門に由来することから馬庭念流の演武を招致したものと考えられる。1780年代には樋口定暠が七日市藩上屋敷(前田家)で剣術指南を行い、小幡藩上屋敷(織田家)でも剣術師範として仕えた。寛政5年(1793年)定暠92歳のときには、松平定信の前で上覧を果たし「英翁」の号を受けた。また嘉永4年(1851)に神田明神、嘉永5年(1852)に浅草寺へ門人姓名額を奉納したことは、上野国門人の結束を強くする行事であったと位置づけられる。また弘化年間に「矢留術」(10間離れた距離から射放たれた弓矢を素肌で構え、木刀で真っ向から切り落とす技)を再興し、旗本の入門が相次いだ。今回の「道場」「上覧」「矢留術」などの例にみたように馬庭念流において、上野国で15世紀末に興ってからの伝統を守りつつ、18世紀初めに江戸に進出し、幕末に至るまで時代時代において、その武術性(古法にのっとり実戦重視の稽古法)が江戸で一定の評価を受けた。このことが、国許の上野国門弟の意識を活性化したと考える。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
平成23年度における研究成果の一部を、「日本武道学会第44回大会」で口頭発表を行った(2011年8月31日「馬庭念流の江戸道場とその活動について」:国際武道大学)。 また、彦根藩から上野国の村へ弘まった念流の調査について、群馬県立図書館で調査にあたったが、証拠となる文書は未だ発見されていない。16世紀末、上野国に広がった馬庭念流中興の師、近江国彦根藩士の友松氏宗(旅名は偽庵)が上野国農村に弘めた念流と、祖流である彦根藩の「未来記念流」、23年度研究で判明した相馬藩で行われた「撚流」(ねんりゅう)との内容比較は24年度以降となる。 また、栃木県文書館での調査も行い、大関文書(無外真伝切紙)、柴田豊久家文書(東軍真当流剣術起請文、武学館一件、武術御見分一件)、相楽家文書(新当流之根本)、那須隆家文書、高橋保三郎家、菊地小次郎家などを閲覧・撮影した。 これらの門人についてみてみると越後国高田藩士・倉地陽次郎正久の剣術修行帳および古河藩士・千賀牧太の廻国修行帳との、剣術流派の重なりがみられた。 本研究は、日本の近代へ継承された身体観、身体教育観の変遷を実証するために、都市ではなく関東の「村」に生きた人々を対象とし、江戸時代初期から幕末に至るまでの剣術流派の分布と内容を調査する研究である。今後も、研究対象を、村で創始され門人が村にいた剣術流派の活動を通して、身体観や、身体教育観を明らかにする調査を重ねるべきと考える。馬庭念流が江戸へ進出し道場を建築したことは、上野国の村における馬庭念流の稽古(身体鍛錬の再需要)をもたらす一因であったのではなかろうか。幕末における身体鍛錬の需要は、他流派と併せて、24年度以降に調査課題を残している。
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今後の研究の推進方策 |
本研究は、日本の近代へ継承された身体観、身体教育観の変遷を実証するために、都市ではなく関東の「村」に生きた人々を対象とし、江戸時代初期から幕末に至るまでの剣術流派の分布と内容を調査する研究である。 平成23年度は江戸へ進出した馬庭念流の場合、国許の村である上野国門人への影響として稽古動機が高まったのではないかという点について明らかにできた。平成24年度では、江戸進出後、幕末から明治に向う激動の時代において馬庭念流がいかに継承することができたかについて、慶応2年に落成した道場「倣士館」(こうしかん)建築のための寄付金台帳に記される門人を分析し、幕末における門人の分布および結束をみてみたい。また関東の「村」における他の流派については、越後国高田藩士・倉地陽次郎正久(1827~1909)の文書「剣術修行帳」および古河藩士・千賀牧太の廻国修行帳に拠り、(1)安房国・上総国での剣術流派調査と門人分布調査(2)常陸国の剣術流派調査ーとくに北辰一刀流(水戸藩)、東軍流(古河藩)示現流(笠間藩)の門人分布調査を行いたい。また(3)埼玉県の神道無念流戸ヶ崎家文書の「書簡」を閲覧し、農民と剣術稽古がどのような意味があったのかを明らかにしたい。さらに(4)武蔵国八王子で天然理心流門人であった斎藤家(八王子市犬目町)の近世文書の資料目録を作成する。 25年度末のまとめにむけては、各市町村教育委員会および郷土資料館での「宗門人別改帳」も併せて閲覧し、家族構成、年令、経済力等を探り、剣術流派門人データベースを作成する。これによって(1)個人氏名、(2)生没年、(3)身分階層、(4)職業、(5)経済力、(6)身体観・健康観などの情報を集計することが可能となると考える。
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次年度の研究費の使用計画 |
平成24年度は、以下の6つの調査における研究費を使用計画をたてている。(1)上野国馬庭念流については慶応2年に建築落成した道場「倣士館」(こうしかん)建築の寄付台帳から門人の分布および結束をみてみたい。そのために、馬庭念流樋口家文書の閲覧(群馬県高崎市吉井町馬庭)、群馬県立文書館(前橋市)、国会図書館などでの調査を重ねる。(2)安房国・上総国で分布した剣術流派のうち判明した流派門人について千葉県内の門人調査を行う。また千葉県立文書館でも調査する。(3)常陸国の剣術流派、北辰一刀流(水戸藩)、東軍流(古河藩)、示現流(笠間藩)では水戸市内、古河市内、笠間市内および茨城県立文書館で調査をすすめる。その際、越後国高田藩士・倉地陽次郎正久(1827~1909)の文書「剣術修行帳」および古河藩士・千賀牧太の廻国修行帳との照合をしながら調査をすすめる。(4)毛利博物館(山口県防府市)および滋賀県大津市堅田・居初家資料から水軍の武に関する資料を整理し、関東で弘まった剣術流派との関連を調査する。(5)武蔵国八王子で天然理心流門人であった斎藤家(八王子市犬目町)の近世文書の資料目録を作成する。(6)米国へ移民した日本人によって持ち出された農村武芸関係の資料についても調査する可能性がある。(米国議会図書館・全米日系人博物館・UCLA:Japanese-American study center)
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