指導者が学習者の運動を観察するとき、第一に「動き方」の物理時空間での運動図形変化に関心が向く。「理想的な動き方とどこに違いがあるのか」という視点で、その違いを見いだそうと指導者は観察を行う。その結果から、「上手な人とこの動き方が違う」という結論に至り、その動き方の違いはスポーツ科学により要素に分解され、自然科学的な精密分析が行われる。指導者自らが自分の目で観察した「動き方の違い」は、スポーツ科学により実証されると、「自分の目は間違っていなかった」と考える。このような手続きは日常生活においても行われ、ものの大きさや角度などでも「目視」によって確認されたことの信憑性は、測定によって実証される。常に「感覚的な判断はきわめて曖昧であり、客観的に測定してこそそれが真実であることが実証される」という科学的思考が我々を覆い尽くしている。しかし、運動問題を解決する本人にとっては、自分の運動問題を知識として知ったところで、実際に動くための知恵とはならない。実際に運動を行うものは、自分の「動きかた」の違いに「気づく」ことが「知る」ことである。その動感を「知る」ことにより、「どう動くか」という知恵が「身体知」となる。科学的思考で「知る」ことによって授けられる「知恵」とはここで截然と区別される。だから指導者が運動発生に関わるために観察することは、「見る」のではなく「見抜く」と呼ばれる。この動感問題を見抜く観察力こそが指導者の技能であり、優秀な指導者は動きの外形的な変化を超えて「本人の動感を捉える」のである。その観察力の養成は「能力性」を背景に持つから、エピステーメとしての知識をいくら有しても養成されない。エピステーメは伝えられても動感能力を伝承することはきわめて難しいが、この方法論の構築は急がなければならない。研究成果の一部は「動感観察する身体能力」として発表済みである。
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